20・<月をみるもの>
天候まですっかり狂ったこの頃では珍しい事に、今夜は空がよく澄んでいた。雲一つ見当たらない空では星が瞬くようにして煌いているのが見える。
星は非常に綺麗だったが彼らには地上を照らすほどの力は無かった。地上は相変わらず暗闇に沈んでいた。
「足元、気をつけて。滑りやすいんで」
「うん」
古びた石造りの階段を提灯をぶら下げたハギトが下って行き、その後に浴衣やタオルを抱えたイノリが続いて連れ立つように歩いていく。
ここは元は富士山あたりまで見渡せる旅館自慢の庭園だったのだろうが、今ではもう階段の周りに植えられた木も芝草も枯れ果てていた。腐敗して土に還る事もなくただ干からびて折り重なっているその姿は、なんだか木草の墓場のようにも感じられるのだった。
「お父さんも来ればよかったのに。せっかく露天風呂あるっていうんだからさー」
辺りをきょろきょろと見渡していたイノリがぼやくようにそう呟く。
温泉に入りたい! と提案したは良いが、八坂は辺りはもう暗いし旅館内にある内風呂で良いだろうという。
だけどイノリはどうしても、読んだマンガに何度も出てきた「露天風呂」に入ってみたかったのだ。彼女の頭の中では頭に手拭を載せて湯船に酒の載った盆が浮かんでサルが一緒に湯につかっている能天気なイメージが浮かんでいた。
しかし父は疲れているからそっちには行きたくないだのと妙に渋るので、仕方なくハギトに案内を頼んで別行動をとる事になったのだった。
「仕方ないよ。露天風呂ってのは〝月見〟をしながら入るものらしいから。――いま、無いじゃん」
ハギトは薄笑いを浮かべながら、星しかない真っ黒な空を指さす。たしかにそこには、多くのマンガや絵本で見てきたような黄色くて丸い月や尖った三日月が無かった。
けど、それそこまで大事?
イノリが大真面目にそう尋ねようとすると、ハギトは続けてこう言ってそれを遮った。
「あと、あんまり言わないけど、オトナはあの真っ黒な空が怖いらしいよ」
「――怖い??」
「そ。中村さんも普段は威張ってるのにたまに夜中にうっかり空を見た時に、不安げな、泣きそうな怒りそうな顔をして、それからすごく不機嫌になるんだ。あれはきっと怖いんだ。だからイノリのお父さんもそうなんじゃないかな」
「えー、私のお父さんはそんな怖がりじゃないと思うけどな」
「怖がりとかじゃないんだ。在るはずの物が無い、ずっと在った筈の物が無くなった、在るべき物がどこにも見つからない――そういう事に対する不安な気持ち、っていうんだろうかね」
その言葉を聞いたイノリが、興味深げにハギトの顔を覗き込む。二人は露天風呂のある離れの入口前で足を止めて話し込んでいた。
「――それって、宝物を無くして悲しい、みたいな気持ちなのかな」
「さァね。俺だって月なんて見た事がないから何にも分からない」
そう素っ気なく答えた後、ハギトは呟くようにして続ける。
「俺が生まれる前の世界で作られた映画とか本に出てくる月は、そりゃあ綺麗だなあと思うけどさ」
何気なくそう呟かれたハギトの言葉に対し、それを聞いたイノリは目を輝かせながら叫ぶ。
「月の映画?!」
ハギトの方はその大声に一瞬驚いた様子だったが、すぐに頷いて答える。
「うん――月の本もたくさん読んだし、月の映画も探して観た。あの旅館、古い映画のDVDがいっぱいあるんだよ。その中に『スペースカウボーイ』とか『月に囚われた男』とか、サイレント映画の『月世界旅行』とか……観たいなら観せてやるよ。電池をかき集めてプレイヤーのバッテリーにすれば今でも見れる」
「本当に? 楽しみだなあ!」
提案を聞いたイノリは嬉しげに喜んでみせ、屈託なく笑いながら言う。そうしてそれからほんの少しの沈黙を守った後、再び今度はハギトの目をじっと見つめながら、自分自身の言葉にやや戸惑いがあるような様子でこう語るのだった。
「だけどね。私、昔の映像とか写真じゃなくて、本当の月が見てみたい」
◆
〝あの大きな天体をじっと眺めながら、あるものはそれを天にある天窓と取った。そこからは天上にある至福なる者の栄光がかいまみられるというのである。あるものは、いやれはダイアナがアポロの胸飾りを整えるアイロン台だと言い、またあるものの叫んで言うのには、あれは太陽そのもので、夜には光の衣を脱ぎ捨ててしまって、自分がいなくなった下界では何をしているのか穴から覗き見しているというのであった。〟
――シラノ・ド・ベルジュラック『月の諸国諸帝国』
◆
――お話で聞いていた通りだった。本当にここからは不思議な香りのするお湯がこんこんと溢れてきているらしかった。
お父さんが話していた通り。そう、これが温泉というやつなのだ。当然(?)の事ながら他に誰がいるわけでもない。広くて見晴らしの良い、空と海が見渡せる大きなお風呂だった。
何年かぶりに鏡の前で丸椅子に座ってシャワーをひねったが其方からはお湯が出なかった。仕方が無いので温泉のそばに座り、桶でくんだお湯を頭からかぶる。
冷たい空気に慣れ切っていたせいか肌にしみるようにピリリとなった。だけどとても気持ちが良くて何回も頭からお湯を浴びて、髪からぽたぽたと滴が垂れた。
それからはもう貰った石鹸とスポンジを使って身体中を擦るように洗う。寒さのせいかそこまでひどい事にはなっていなかった――と思いたいけれど、最後にまともにお風呂に入れたのはもう三年くらい前だ。やっぱ臭かったと思う。自分ではあんまり分からないのだけれど。
お父さんにも臭いと思われていたのかな、などと考えると妙に恥ずかしかったがお父さんも大概臭くなっていたしおあいこだろうか。
そういえばハギトは会った時から石鹸や香水が入り混じったような良い匂いがしていた。そりゃあこんな場所に住んでいればお風呂にだって毎日入れるのだろう。――となるとハギトには臭いと思われていたかも知れない。
そんなことを考え始めたら恥ずかしいような腹立たしいようななんとも言い難い気持ちがこみ上げてきたので、掻き消すように手にめいっぱい泡を立ててから何回も長い髪を洗う。最初は泡が立たなかったが何度も洗い落とすうちに泡立つようになった。汚れが落ちたのだろう。
それから漸く浸かった湯船はもう、身体の中まで痺れるような心地よさがあった。肩まで沈んだ時にはもうすっかり惚けたような気分になってしまっていた。身体がすっかり忘れていた類いの快楽。
「あー……〝気持ちイイ〟ってこういう感覚だったんだなァ」
足をだらりと伸ばし、お湯の中になかば寝転がるようにして顎まで浸かる。サルとかお猪口は無いが至福の時だった。
「こんなに良いんだから、お父さんも来ればよかったのに」
湯煙の中で深く息を吐き出しながらイノリがふと頭上を見上げると、例の星だけが見える真っ黒な空が視界いっぱいに広がった。じいっと見つめていると動いているのが分かる早い星空だとお父さんは言っていた。
『オトナはあの真っ黒な空が怖い』
ハギトが言っていたその言葉が蘇る。その意味がイノリには感覚的に分からなかった。どこまでも真っ黒でのしかかるような重苦しさがあるが――イノリにとっては物心ついた時から夜空はずっとこういうものだった。
大消失以前の世界の天体観測の本なんかだと「月の明るさは星を見るのに邪魔になる」などと書いてある。そういえば例の豪邸に住んでいた頃には電気のついた部屋の中からでは星は全然見えなかった。あれくらいの明るさをもたらしていたというのなら、月の明るさというのは想像する以上のものだったのだろうか?
人間はもう何十年も前に月に行った事さえあるらしい。本当だろうか?
月は砕け散った地球の一部が再び一つに固まって生まれたらしい。じゃあ地球の地面と月の地面は同じなのだろうか?
自分が今見ている空は自分より前の世界の人が見ていた空とどう違うのだろうか? 月のある空を見ながら、人間は何を考えたのだろうか?
自分は何故、見た事も無いものにこうも興味を惹かれているのだろうか?
――イノリにはひどく漠然とした知識しかなかった。本はよく読んだし教員でもある父からある程度の事は教わっていたが体系的な教育というのは受けていない。
それでも温かい湯船の中に沈み込み、それが無くなった夜空を見上げながら、見た事が無い月への惹き付けられるような空想はどこまでも膨らんでいく。
月が、イノリの手の届かない場所にある何かについて、考えさせ始めていた。
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