12・月の無い夜に歩く


「お父さん! お父さん! 起きて!」


 漸く寝付いた頃になってイノリの大声で起こされ、八坂は何事かと起き上がった。辺りは真っ暗だ。電気も点けずに大声で自分を呼んでいる。

「――い、いったいどうした?」

 手探りでどうにか枕元の眼鏡は探り当てたが、かけても相変わらず暗すぎて何も見えやしない。

「イノリ、ちょっと電気をつけてくれないか。ドアの所にスイッチがあるはずだから……」

 暗闇の中でどうにかベッドから出て立ち上がる。電灯は点かなかった。

「分からないかい? 今行くから……アイタッ」

 おっかなびっくり歩くが途端に足の指先を何かにぶっつけた。すこぶる痛い。落ちて壊れるような音がしたが、何にぶつけたのかすら分からなかった。

「ええと……たしかこの辺に……」

 ようやく寝室のドアらしき場所に辿り着き、手探りで電灯のスイッチを入れた。しかし電灯はつかなかった。何回も操作するがやはり点かない。漸く気付いたが、廊下も真っ暗でそこに居る筈のイノリの姿もよく見えなかった。

「電気、全部消えちゃったの」

 イノリの言葉に八坂は思わず「停電?」と漏らしてしまったが、元よりこの家は自家発電機で電気を賄っている。

 ――燃料が切れたか? それか故障か?

 しかし燃料はこの間入れたばかりで、あと四日は持つはずだ。だとしたら発電機の故障という事になるのか。困った。もしも故障だとしたら自分にはお手上げだ。

 とりあえず寝室の懐中電灯を探したが――置いておいたはずの机の上を手探りで漁ってもどこにも無い。もしや、さっきぶつけた拍子に落ちて壊れたのは懐中電灯だったのか。

 無い物を真っ暗闇の中で探していても仕方がない。一階にも懐中電灯があるはずなのでそれを拾って、それから地下の発電機を見に行くか。


「イノリ、行くよ。足元に気をつけて」


 八坂はイノリの手を取り、壁に手を当てながらゆっくりと歩き始める。家の造りは充分知っている筈なのに視界ゼロの中で歩くのはひどく不安で、途端に厭な汗が出てくる。

 暗闇の中では目が慣れるというが、それは瞳孔がだんだんと開いていく事で感知できる可視光線の幅が増えていくからだ。月の消えた可視光線の乏しい夜ではちっとも目が慣れてくれなかった。

 いつまでも足元すら見えない暗闇が異様な不安感を煽り、おかげで階段の手前に辿り着くだけで随分な時間がかかり、汗だくになってしまった。

 ようやく一階へ下る階段の手すりがなんとか掴めたあたりで、八坂はおかしな事に気がついた。


 水の音?


 波が打つような音が聞こえるのだ。それも一階から。

 厭な予感がして速足で階段を降りていく。一歩一歩階段を降りていくごとに水音が大きくなり、漸く一回の床に足がついた時、それは確信に変わった。

「――浸水だ!」

 どうやら一階の床上まで、水が来ているらしかった。くるぶし辺りまで冷たい水に浸かって濡れたのだ! 地下室にも水が入って発電機は停止してしまったに違いなかった。

 しかも悪い事に水はどんどん増えてきているらしい。あっという間に水は脛あたりまでに到達したのだ。――おそらく、おそらくは海面上昇がまた起こり始めたのだ。他にそれらしい可能性は思い浮かばなかった。

 大消失から五年後に起こった海面上昇はほんの数時間のうちに東京湾沿岸の商業区を軒並み水没させて経済機能を喪失させた。東京タワーの前に立ったリポーターの足元の水がみるみるうちに増えていく中継映像は、当時かなり話題になったものだ。あれと同じような勢いで増水していくならば、この区域にいつまでも留まるのは危険に思えた。海抜ゼロメートル地帯と違い山の手線圏内は比較的水害に強いはずだが、都市の排水ポンプももう機能していない以上、安心はできない。

 ――とりあえずもっと高台に避難した方がいい。それも今すぐに。ここまで生き延びてきた八坂なりの咄嗟の判断だった。

「イノリ! 今すぐ高い所に逃げるよ! 行こう!」

「高い所って?!」

「――外だよ!」

 八坂はイノリの手を引いて一階の廊下を走り抜けていく。バシャバシャと甲高い水音が響き渡る。

 なんとか辿り着いた玄関は脛辺りまで溜まった水のせいで酷く重たくなっていて、二人がかりでようやく押し開ける事ができた。せめて着替えや懐中電灯を持って出たいところだったが、扉を押している最中にも増え続ける水を見る限り、もうそんな余裕はないのは明らかだった。


 二人は玄関から路上に飛び出す。外は冷たい大気と暗闇に充ちていて――急がねばならないのに、数歩歩いたところで八坂は思わず足がすくんでしまった。

 前が見えないし足元も見えない。頭上には点のような星が見えるだけで彼らは何も照らして見せてはくれない。

 闇の中に音だけが在って、自分とイノリの息遣いと、海岸に居るかのような錯覚を起こさせる波のような音だけが聞こえてくる。まるで宇宙にでも居る気分だった。こうして躊躇している間にも打ち寄せる波音は水位が未だ上り続けている事を示し続けている。

「――お父さん?」

 イノリの呼びかけに、八坂は強く手を握り直して応える。

「大丈夫。すぐに安全な所まで連れて行くからね」

とにかく、こうなればもう記憶を頼りに歩いていくしかない。たしかこの通りを500メートルも行けば坂があって、その先に行けば高台になっているはずだ。

 八坂は気を強く持ち直し、ほとんど全ての感覚が遮断された闇の中に足を踏み入れ――


                ◆


 ――さてどれだけのあいだ闇の中歩いただろうか。

 目はいつまで経ってもこの暗闇に慣れる事なく、氷のように冷たい水に足を漬けて歩き続けるうちにすっかり感覚が麻痺してしまったような気がする。

 なかばカンと手探りで歩くばかりになってしまっていた。今どの辺りにいるのか、そもそも記憶通りに道を辿れているのかすら分からない。感触的にはもうイノリの手を引き、足を動かしているだけだ。


 江戸時代には満月の夜には提灯が不要な荷物になると言われたらしい。月は人間の目に足元が見通せるほど明るい光をもたらしていたのだ。最も光の弱い新月の夜ですら目を慣らせば周りを見る事ができた。

 そんな恩恵を我々はとうに忘れていたし、自分は月が消えた後ですら全くの無灯状態というものは経験した事がなかった。電気照明、懐中電灯、蝋燭――とにかく何かしらの人工照明に頼っていた。

 こんなにも完全な暗闇は、たぶん生まれて初めての体験だった。ずっとこんな世界に放り込まれたら五感が狂ってしまいそうに思えた。

 下半身の凍てつくような感覚すらだんだんと曖昧になっていき、なんだか、手が震える。水音だけが相変わらず頭の中にパチャパチャと響き続け――やがて、倒れた。頭から水の中に突っ込んだ。

 思わず手を離してしまい、イノリが何かを叫んだが、もうそれを聞き取る事もできなかった。意識は闇と水の中に溶けていったらしい。暗闇の中で唯一自分を奮い立たせていた、イノリを守らねばという想いすらもう消えていた。


                ◆


  ――一瞬の断絶の後。

 自分はよろよろと歩いている。いや、歩いているらしい。視界は相変わらず暗闇の中で、四肢の感覚だけがそう伝えてくれる。全身が痺れたように感じていてひどく曖昧だった。

 刺すような痛みが身体中にあると思ったが、これは寒さか。氷点下近い気温の中で水に沈んだのだから当たり前だ。下手をすればこのまま凍死だろう。

 その時自分はふっと気がついた。自分は今

 誰に? イノリか? それとも第三者か? 分からなかった。

 自分を引く手は暗闇の中を一切の迷いなく進んでいるようだ。できる限り急ぎ足で、しかし朦朧とした此方に気遣いながら。足取りからはそういう配慮が感じられた。

「…………」

 尋ねようとしたけども、冷え切った身体から声が出ない。身体を震わせながら、ゾンビのようにもたもたとついて歩くだけが精一杯だった。この時ようやく気がついたが、足元にはもう水が無くなっていた。

 やがて、自分を引く者は足を停めた。一瞬だけ手を離された後、ガヂャンという音が聞こえた。たぶん窓ガラスを足で蹴破った音。

 そうしてまた手を引かれ――自分はおそらく、家の中に引き上げられたのだ。そのまま崩れるようにして倒れ込んだのは畳の上で、それだけでもなんだか一気に安堵した。


 自分の手を再び手を離すと、ここまで助け出してくれたその人はトタトタと足音を立てながらあちこちを物色し始めたらしい。

 しばらくするとこちらに戻ってきて、どうも自分の身体を触っているらしかった。一体何事かと驚いたが、次の瞬間にはその手は自分の服を脱がし始めていた。

羽織っていたジャンパーから下着に至るまで――もちろん水浸しだった――残らず脱がされた。思わずずっと閉じていた目を開けたが、ダメだ。やはり真っ暗で見えない。

「…………」

 あいかわらず声が出せないまま一瞬ひどくばかげた事を考えてしまったが、すぐに可笑しくなってしまった。相手は、ただ自分の身体をタオルで拭こうとしてくれていたのだ。

 丹念な手つきで身体中の水気を残らずふき取ってくれたあとは毛布を自分にかけた上で、新しいタオルで全身を摩擦してくれている。それは模範的な低体温症対策で、続けてくれたおかげで刺すような苦痛がだんだんと消え始めていた。


 ひとしきり自分の身体を擦ってくれた後、相手はどうやら毛布の中に入り込んで

きた。そうしてまたモゾモゾと動きながら模範的な低体温症対策――例の、服を脱いで抱きついて肌をくっつけ合うとかいうやつ――をやりはじめ、それでどうも肌触りで相手が女性だという事が分かる。

 相手の肌のぬくもりも息遣いも察する事ができ、緩慢になった思考がどうしてもに気をやってしまうが、実際効果があるようで強い安心感も覚えるのだった。

 そうしてだんだんと正気が近づいてくると、薄々感づいていた事をとうとう聞かなくてはいけなくなった。

「……イノリか?」

 胸元辺りに顔をうずめたまま、相手が一瞬フフっと息を漏らして笑ったのが分かった。そうして

「やっぱりわかっちゃった?」

 と呟いた。

「知ってるよ」

「おかーさんだと思ったりしなかった?」

「しない」

「へー……」

 八坂は起き上がろうとしたがまだ体を動かすほどの体力は戻っていないようで、頭痛がしてろくに動けなかった。

「動いちゃダメだよ。まだ体温がちゃんともどってない」

「よく知ってるね、そんな事」

「本で読んだ。何か要るなら私が取って来るよ」

「いや、まずここ、どこだい?」

「知らない家。ガラス壊して入ったんだ。水もここまでは来てないよ」

「へぇ……」


 八坂の方は内心かなり驚いてきた。

 寒さと判断力低下で失神した自分を即座に助け起こし、気遣いながら手を引いて安全な場所まで連れてきて、大人顔負けの介抱まで施して。

 この子はもう、そんな咄嗟の判断力を身に付けていたのか。

 娘のたくましい成長を喜ぶべきところなのだろうが、どういうわけかなんだか妙に寂しい気もしてきていた。(まあ、イノリが何もできない子供のままだったら自分は死んでいたのだが)

「じゃあ私は着る物を探してくるね。隣の部屋にクローゼットがあったんだ」

 そう言って、イノリはもぞもぞと身をよじらせて毛布から出ていく。

 八坂は特に深く考えずいつもの調子で「まだ暗いから危ないよ。後にしなさい」と声をかけたが、イノリは「大丈夫。見えてるよー」とだけ答えて、どうやらそのまま真っ直ぐに行ってしまったらしかった。


 …………?

 八坂は妙な違和感に気づいて、思わず横になったまま周りを見渡した。

 塗り潰したような可視光線皆無の夜はあいかわらずで、自分には鼻先にあるものすら見えそうになかった。

 そういえば、一体どうやって、イノリはここまで来たのだろうか――?





〝用心しないといけないよ。あまり軽はずみな事を言うようでは、魔法によって月を引き下ろしたというあの女達――そう、テッサリアの魔女たちが引き換えに蒙ったと伝えられる災難に我々が遭わないとも限らないのだからね。〟

   ――プラトン『ゴルギアス』

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