IV - 05

「あんなアホは手加減の仕方がわかんねえんだから、下手すりゃ手やられちまうぞ」


 屋上に並べた椅子に座り、岸田が言った。

 岸田が提げていた袋の中身は飲料缶と菓子パンと菓子類で、僕はその一部を押し付けられて口にする。ナッツ入りのチョコバーと、エナジードリンクにコーヒー。カフェインと糖分があれば良いという人間の昼食だった。


「今晩、仕事するぞ」


 空が無駄に晴れていて、雲ひとつない。教室の窓から笑い声が漏れ聞こえてくる。

 扉の方を見るが、紫苑が来る気配はない。


「何やってんだお前は、あからさまに荒れやがって。荏田はどうした」

「いや、何も」

「いや、何も、じゃねえだろ。どうした、痴情のもつれか」

「痴情ではないけども。お前、あいつの家の事情知ってたっけ」

「母親がどこぞのおっさんの愛人やってるって話か」

「そう、それ。そのおっさんが、俺の親父だった」僕は言う。「それだけ」

「それで? 親父の所業の申し訳なさから顔が合わせづらくなってるってところか」

「……まあ」


 短く会話が途切れた。


 束の間の沈黙に僕の話が終わったと見ると、岸田は短く返事をした。

「あ、そ」続ける。「まあ、自己責任だな。荏田を抱え込んだお前が悪い」


 岸田が空っぽになったコーヒー缶を地面に置くと、強い風が吹いて倒れた。

 缶の底に溜まっていた僅かな液体が飲み口から零れ、雨で固まった土埃の上に黒い染みを作った。排水のために設けられた僅かな傾斜に従って缶が屋上の端まで転がり、かたん、と空虚な音を立てて止まった。


「そもそも、俺も、お前も、まともになり損ねてんだよ。どこかが捻じ曲がったまま戻らなくなっちまって、まともな他人に合わせられない。だから、まともじゃない人間と付き合うしかないが、まともじゃないから、まともな付き合いができない。結局、問題が起こる」


 岸田は紫苑までもを含めて、まともじゃない、と言ったが僕は反論しなかった。

 価値観の歪みや孤独感を世間は異常と判断するし、病んでいると判断する。

 正常な人間は異常者を救わない。


「もし、荏田があんな境遇じゃなけりゃ、お前なんか必要ない。お前が荏田に関われてるのは、幸運にも荏田が不幸だったおかげだ。お前がスネてるのは、もっとほどほどに不幸で特に苦痛や苦労や後腐れもなく助けられる女が欲しかった、って言ってんのと同じだ。んなことでヤケになられても迷惑なんだよこっちは」


 まともでフラットな人間関係を築けないくせに、救おうとする不幸が度合いを過ぎていれば我が侭を言う。僕が主張してるのは、ちんけなヒーロー願望だ。そんな立場で何かを求めるな。岸田はそういうことを言っていた。


 大義名分を求めるな。

 苦痛のない構図を求めるな。

 救えると思うな。

 救われると思うな。

 粛々と救え。


 対処できる程度に程よく悪く、程よく貧弱な悪役を抱えたヒロインなんか現われてはくれない。まともになれなかった人間は、必然的に痛みを伴わなければならない。犠牲を伴わなければならない。


 岸田は続けて言う。


「そもそも、あんなヤツに当たり散らしたところでイラつきが収まってスッキリなんかしねえんだよ。俺たちみたいなのは、爆弾の一つや二つ落ちてきて全部ぶっ飛ばされるくらいのことが起きねえと、ダメだ。それか、死ぬぐらいしねえと、まともに戻れない」


 なら、望みは薄い。

 いまはどちらも難しい。

 岸田は言う。


「今晩、いつも通り仕事をする」

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