IV - 04

 遅刻を省みる素振りもなく鞄をぶら提げて学校に向かうと昼休みの真っ最中だ。

 学校中が和気藹々とした会話に満ちている。


 居場所がないのはいつものことだが、いつにもまして声が神経を逆撫でする。楽しそうな人の声が聞こえれば聞こえるほど、頭が痛くなる。息が詰まりそうになるので足早に教室を出ていく。


 自分の教室を出て隣へ隣へと教室を覗く。

 紫苑の姿が見当たらない。

 屋上への階段を上がって埃っぽい踊り場を抜ける。

 紫苑はいない。

 代わりに、屋上への扉の前に見ず知らずの男女がいて身体をまさぐりあっている。たぶん僕の一年上、三年生、おそらくカップル。特徴のない普通の女子生徒と、軽く日焼けして体格のいい男子生徒。


 身体から力が抜け、なぜか笑えた。


 ああ、そうだよな、こんな人気のない場所だからな。

 そりゃこういうやつの一人や二人いたっておかしくないよな。


 僕に気づき、女の方が「人、いるじゃん」と声を漏らしたが、男は僕に一瞥もくれず、過呼吸みたいなテンポで女の首筋に鼻息を吹きつけながら女のシャツの中で手を動かし続けた。身体をすり寄せ、腕を蠢かせる様子が、何か渦を巻くぐにゃぐにゃとした一つの塊のように見えた。


 僕の頭はそれを可笑しいものとして認識し続け、また僕は笑う。

 紫苑が来ない。


「何笑ってんだお前」


 急に男が言った。僕に向かって言ったらしく、階段の上から男が僕を見た。さっきまで自分の身体をまさぐっていたはずの男が急に喋り出したものだから、女の方は困惑していた。前戯キャンセルからの口撃。ゲームならコマンドはたぶん236C→ABC(同時押し)→22A、とかそんな感じ。自分で自分の考えていることに笑ってしまう。


 馬鹿馬鹿しい。


「おい」


 男がまた言った。

 今度は、少しだけ声を張り上げていた。

 だからなんだ、と僕は思う。

 僕は返事をしない。


 消えろ、と示すような傲慢な態度で男が僕を睨んだ。男が僕を睨んだまま固まっているので、女は所在なさげだった。男が外そうとしていたブラのホックが外れたらしく、女のシャツが内側から膨らんだ。


 他人様が愉しんでいるところに水を差す根暗野郎。


 たぶん、男から見た僕の評価はそんなところで、だからお前は消えて当然なんだと言いたげな表情をしていた。別に僕はこの場所での権利を主張したいわけじゃなかったが、そんな男の態度が不愉快だった。


 愛、絆、結束、団結、友情、青春。

 そういうものを掲げた奴らがどこにでも我が物顔でいて、それにそぐわない人間を異物や不純物として排除しようとする。いま目の前にいるのもそういうやつなのだという気がして、僕はそういうことを拒絶してやりたかった。


 男が何かを叫んだ。

 僕は笑った。

 美しい物に中指を立ててやりたかった。

 ポケットの中にはアーミーナイフが収まっていて、鈍い刃でも勢いよく突き立てれば刺さらないこともないだろうと思った。


 かさり、と乾いた音がした。


「よう」


 階段の下に岸田がいて、僕を見上げていた。

 僕が階下を見たまま止まったので、男は怪訝そうに僕を見た。


 岸田は白いコンビニ袋を右手に提げ、一歩ずつ階段を上る。屋上への扉は閉まっているのに、まるで偶然通りかかったかのようなひどく自然な足取りだった。踊り場に立つ僕の横を通り過ぎ、男が見ているのも気にせずに岸田はそのまま階段を上り続ける。白い袋の中に何か飲み物の缶が入っているのが透けて見えた。 


 気を取り戻したかのように、男が口を開いた。なんだ、お前、とか男が言おうとし、岸田は何の前触れもなく腕を振った。袋の中で缶が歪む鈍い音がし、袋が男の顎を打ち抜いていた。ぷしゅ、と炭酸の抜ける音がした。


 振り上げた腕を戻すように、岸田が男の頭に腕を振り下ろした。

 裂けた袋から泡立った飲料が飛び散り、扉に嵌められたガラスと女の顔にかかった。男の身体がゆらりと崩れかけ、咄嗟に女の方が服を掴んだ。女は男を引き摺ろうとしたが、その体重に諦め、僕らの顔を交互に見て、浅い息で呼吸を繰り返した。


 それから、女はじりじりと下がって彼氏を置いたまま階段から姿を消した。


 助かった。


 僕はそんなことは言わなかった。

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