III - 08

「……話はいいけど、用ってなんだよ」


 岸田について背の低い住宅街を抜け、薄暗い高架下を歩き続ける。

 頭上の高架に敷かれた線路を電車が走り抜けるたびに轟音が響き、自販機と室外機から吐き出される生ぬるい空気が揺れた。何かが詰まったゴミ袋が積みあがっていて、その凹凸に溜まった雨水が薄く澱んでいる。


「俺の上司がお前の顔を見たいんだと」

「上司って……火点け屋の皆さんか。その、上司とは頻繁に会うのか」

「別に。ただ、一回は顔が見ておきたいらしい」


 顔が見ておきたいなら一度目の実行前にやるべきだ、と思ったが、一度やって引き返せなくなった今だからこそ合理的であるようにも思えた。顔を見ておきたいというのはもっともだと思ったが、顔なんか見ていなくとも一度やり遂げたのだから、不要な行為であるようにも思えた。

 犯罪を実行する時点で破綻している以上、犯罪の論理はどこまでいっても言葉遊びだ。


 岸田の足が高架沿いに並ぶ背の低いビル群の一軒の前で止まり、中に向かう。

 階段を上がり、二階の一室に入って岸田が言う。


「ここでしばらく待つ」


 表の掲示によれば部屋は一日五〇〇〇円で利用できるレンタルルームだった。壁際に長机やパイプ椅子が積まれている以外には何もない。剥き出しのフローリングにフロアマットを剥がしたような痕跡が黒くこびりついている。


 岸田が甲高く軋むパイプ椅子を開き、腰掛けて腕時計を見る。


「まだ時間がある」


 どういう人間が部屋に来るのかわからず、僕はドアの方に目をやる。


「火点け屋って、どういうやつなんだ」

「別に、普通の人間だ。犯罪者は犯罪者面をしてない」

「……付き合いは長いのか」

「まあ、一年くらいだな」

「一年って。お前は、どれくらい火点け屋やってるんだよ」

「結構長いぞ。約、二年ぐらい。人生の八分の一が放火か」

「二年もできてたんなら、いまさら俺を仲間にしなくたっていいだろ」

「無理じゃねえけど、俺一人だと破錠する必要があるからな」


 破錠。

 鍵を破壊する技術だ。ハンマーで錠を叩き壊し、バールでドアの蝶番をこじ開ける。部屋の中にいることが目的だった僕はやったことがないが、騒々しいし、荒っぽい手口で、解錠に比べるとリスキーなことは想像できた。


「鍵を開けられるやつがいるなら使った方がいいだろ。数か月前のお前は動機不十分だったが、荏田のおかげで今のお前には動機が十分にある」


 そして、実際に僕は来た。

 予想通りに。

 数か月前の僕なら動機不十分だったということまで含め岸田は僕を読み切っていて、僕は岸田のことをまったく読めていない。一方的に観察されているということに、僕は気づけなかった。


「そういや、荏田とはどうしてる、もう寝たか」


 岸田が尋ねた。

 相手の質問に自分が答えたから、今度は自分も何か尋ねた方がいいかな、とでもいうような、ひどく自然な尋ね方で、一瞬だけ僕は面を食らった。


「……それは、婉曲表現ってことでいいのか」

「そうだな、婉曲にしなけりゃ、やったのか、になる」

「何も、やってないけど。……意外と発想が短絡的なんだな」

「短絡的でもないだろ」岸田は口の端だけを上げて笑った。「お前は荏田の生命線を握ってんだ、一言二言言えば大体のことは通る。せっかく道を踏み外したんだ。楽しめることは楽しんどけよ」


 俺はそんなことはしない、とか、紫苑はそんなやつじゃない、とか、なにか否定をしたかったが口にしなかった。なんとなく、どれもが陳腐なメッセージに行き着いて岸田に嘲笑われそうな気がした。

 ブラインドのかかった窓の外でゆっくりと空が曇っている。


「放火と性欲の相関なんかいくらでも例がある。一発ヤった直後に物足りなくて放火しただとか、一晩で十一軒に放火してその先々で射精したとかな。本能みてえなもんなんだろうな」


 そんなふうに岸田が言うので、僕は岸田の皮肉っぽい笑いを真似して返す。


「それは、お前の体験談か?」


 すると、岸田はほんのわずかにだけ目を丸くしてから、またいつも通りの顔に戻った。


「かもな」

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