(17)夏の空気

 部屋に駆け込んだあとも、しばらく震えが止まらなかった。膝を抱えて床の隅で縮こまりながら、真夜中の砂嵐がごとく、得体の知れない恐怖と闘うほかなかった。

 アル・カーヒラの夜の出来事が、心的外傷トラウマとなって身のうちの深いところに巣食っていることを、少女はそのときになって初めて自覚したのだった。その理由を自問せずにはいられない。なぜならばあの出来事は、ユリアナのなかでとっくに処理の済んだはずの話だったからだ。傷つけられた体験は他にいくらでもあって、そのひとつひとつと、折り合いをつけてきた。

(何かの間違いだわ、きっと。今はひどく疲れているから……)

 小さくくしゃみをして、思い出したように鞄から寝間着を引っ張り出す。背中の紐に難儀しつつ、肌触りのいいシルクのネグリジェを身にまとう。両足のない自分にも着やすいように丈が短く、そしていささか少女趣味な寝巻きは、入院生活に際してクラエスが買ってきたものだった。

 水色の生地を指先でまみ上げれば、溜息がこぼれ落ちた。

 ユリアナは硬く閉じ切った扉に目を向け、耳をました。水音は止み、クラエスも浴室から出た頃合いのようだった。


 隣室に顔を出すと、クラエスは探すまでもなく、隅の長椅子に腰かけて何かの作業をしていた。彼の手にはふわふわとした小柄なテディベアが握られていて、その腹をつくろう真っ最中のようだった。

 流石にユリアナの気配には気付いているはずなのに、クラエスはむっつりと黙り込んだまま、器用に針を動かしている。それはユリアナが隣に腰かけても変わらず、逆にどんどん顔が強張っていくようでもあった。

「何か用ですか? ――疲れているなら、隣で休んだほうがいいですよ」

「目が冴えちゃったの。ねえ、隣にいてもいい?」

 横目でユリアナを一瞥し、「いちいち許可を取ることですか?」と容赦のない嫌味を飛ばす。対するユリアナもひるんだ態度は見せない。

「だって、クマちゃんの手術を邪魔しちゃったら悪いでしょう?」

「よくわかっているじゃないですか。だったら今すぐ出て行ってください」

「でも、一緒にいたいんだもの」

 間髪入れずそう返せば、クラエスは大袈裟に溜息をついた。歯で糸をプツンと切り、針を裁縫箱に戻す。そしてユリアナとは反対方向にテディベアを置いた。

「わけのわからないことを言わないでください。――ほっといてくれませんか」

 淡青色の目に睨み据えられる。氷のような眼睛ひとみに強い苛立ちが募るのを見て、ユリアナはぎゅっと両手の拳を握りしめた。

「さっきはごめんなさい。私、あなたが嫌だったわけじゃないのよ。だって、拒む理由なんてないもの。ただ……急に怖くなっちゃったの。あなたにその気がないのは分かっていたんだけど、どうしても、押し潰されちゃうんじゃないかって……」

「……押し潰す?」

 怪訝そうにクラエスが目をすがめた。

 このままではさらなる誤解を重ねてしまいそうだ。

 猜疑心を露わにしたクラエスに、ユリアナは一生懸命言葉を探した。「何というか……後ろから、体重をかけられるのが嫌だったの」――しどろもどろになりつつ、必死に説明をする。

「ずっと前――アル・カーヒラで、桑雨に騙された私が《難民解放戦線》のアジトに連れて行かれたことがあったでしょう? そのとき閉じ込められた部屋はすごく狭くて、暗くて、机も椅子もなくて、絨毯だけが敷かれていて……心細かったわ。そしてその日の夜に、バラドがやってきたの。あなたに反逆罪を聞かされてから、実際にバラドに会ったのはそのときが最初で……。それでね…………」

「……ユリアナ」

「バラドがね……」

 視界がチカチカと明滅する。天井の電球が切れかけているわけではなく、眩暈を起こしているのだ、とは気付かない。

 クラエスの誤解を解きたい一心で、ユリアナは言葉を続けようとする。

「ユリアナ」

 手首を掴まれ、体を引き寄せられる。クラエスの膝に乗り上げる形になり、それがあまりに突然だったから、ユリアナは目を白黒させた。

「な、なに? どうしたの、クラエス?」

 自分を抱き締めようとする青年の胸を叩いて、ユリアナは顔を上げた。至近距離に迫った淡青色の瞳は、なぜか痛みをたたえていた――

「すみません。私が馬鹿でした。言わなくて結構です。もう十分ですから――」

「……言わなきゃわからないでしょう!?」

 温かい腕、その言葉に反発するように、ユリアナは声を張り上げた。

 ――ほとんど絶叫に近かった。

 クラエスが目をみはる。ユリアナは目の前の肩を掴んで、わめき散らすも同然に言葉を続けた。

「あの暗い部屋で、バラドは後ろから私を犯したわ。顔も見えなくて、頭を押さえつけられて、義足もなくて、腕を強い力で掴まれるから身動きもできなくて――絨毯に手のひらや左足の膝がこすれて、たまらなく不安だったわ。でも同じくらい、バラドも不安そうだった。それが無性に悲しくて……」

 小刻みに肩を震わせると、ユリアナは片腕で目もとを覆った。

「どんなに痛めつけられても、いいの。肉体が傷ついたことが問題じゃないの。バラドの心が分からないのが辛かったのよ。あんなにずっと傍にいたのに、私は何も理解ができていなかったのよ。たぶん、それは今も……」

 次第に弱弱しく、今にも消えそうな声にそっと耳を傾けて、クラエスは子どもにするようにユリアナの背中を撫でた。

 目は乾いている。しかし胸の奥につかえたものがずっしりと重くしかって、存在を主張して、全身の震えが消えない。ユリアナは乱れる息を何とか整えると、クラエスに対して謝った。

「あなたに聞かせる話じゃなかったわ。気分が悪くなったでしょう。何でかしら。あなたのせいじゃないって、それだけ言いたかったのよ。それなのに」

「……いえ」

 クラエいスは言葉少なにうなずいただけだった。

 神妙な態度に、軽蔑されたかもしれない、あるいは愛想を尽かされたのかもしれないと、心の片隅で考える。それも当然だろう、と自分に言聞かせて。

(自分の言いたいことばかり言って……。私、ちっともクラエスの気持ちを考えてないわ……)

 自己嫌悪に陥りかけた矢先、クラエスの声が頭上から降ってきた。

「貴方の心には、ずっとバラドが住み着いている。貴方にとって、あの男はそれくらい切り離しがたい存在なんですね」

 彼の声は淡々としていた。自分自身の胸中をひとつひとつ整理しながら、言葉に置き換えているようにも聞こえた。

「貴方は知らないかもしれませんが、私は意外と嫉妬深いんです。バラドにしろ、キナアにしろ、他の誰かにしろ――貴方が私ではない男のことを考えたり、頼ったりすると思うと、悔しくてたまらなくなるし、その相手が憎くてたまらなくなる」

「……ごめんなさい。もしかして……今日、あんなに様子が変だったのも?」

 言葉に詰まった様子のクラエスを見るに、図星らしい。ユリアナは眉をひそめて、ぜんぜん気付かなかったわ、と呟いた。

 クラエスは肩を竦めて、「でも」とはっきりとした声で続けた。

「今のでよくわかりました。もちろん個人的にはバラドのことを許せませんが、貴方にとって、バラドが唯一無二の存在であることを。簡単には切り離せないし、あなたの心の一部分になったバラドは、もう永遠に無くならないかもしれない。――でも、そういうところを含めて、私は貴方のことを愛せると思う」

「…………」

「…………変な顔しないでくれませんか」

「……だ、だって急に……そんなこと言われても……こ、困るわ」

 まっすぐに自分を見据えるクラエスから、思わず顔を背けてしまう。彼のまとう洗いざらしの襯衣シャツをぎゅっと握りしめ――逡巡した末に、ゆっくりと視線を元の位置に戻した。

 ユリアナの生乾きの横髪を指ですくい、耳にかける。そして白い頬を手のひらで包みこむと、クラエスはコツンと額と額を突き合わせてきた。

「だからね、ユリアナ。貴方の歩調が緩やかなように、私も貴方に合わせてゆっくり歩きます。バラドのことだって焦ることはないし、もちろん急ぐ必要だってありません。彼のことは、貴方のペースで、ゆっくり消化していけばいい。理解しようとすればいい。たとえ永遠にそれが敵わなくても、けっして無駄ではないだろうから――何も恐れることはないし、怯えることはないんですよ」

 ユリアナの頭を撫でて、クラエスは微笑んだ。

「……でも」

「十年一緒にいたって、わからないことはありますよ。私だって、いまだにエレノアのことがよくわかりませんし。そういうもんでしょう。自分以外の人間を、完璧に理解することはできない。でもそれは、常に分かり合う必要はないってことでもあるんです。貴方が彼に譲歩する必要もないし、媚びたり、愛してやる必要だってない。どういう決着をつけるかは分かりませんが、大きく構えて、貴方なりの答えを探していけばいいんですよ」

 コクリと小さくうなずいて、ユリアナは目を細めた。目頭がふと熱くなり、今にも涙がこぼれ落ちそうになる。

 そして甘えるようにクラエスにしがみついた。彼の温もりを全身で感じながら、ありがとう、と小さな声で囁く。

(……そうね。クラエスの言う通りだわ。今はバラドのことがわからなくても、いつかはわかるかもしれない。もう昔のようには戻れないのだから、私たちのこれからの在り方を、探していけないといけないんだわ……)

 無理に切り離そうとしなくていい。けれども、必要以上に歩み寄らなくてもいい。お互いにとって最善の関係性を築ければいい。

 そう考え直すと、すこしだけ頭のもやが晴れた気がした。

「……あのね、クラエス。お願い、聞いてくれる?」

 ひとしきり彼の胸で泣くと、ユリアナは顔を上げて、そう問いかけた。

「……八割がた聞けませんね」

「一緒に寝てくれる?」

 その言葉に思いっきり目を逸らされ、ユリアナは唇を尖らせた。

「いいじゃない。ミナも手術したばかりで、不安だから一緒に寝たいって言ってるわ」

 クラエスが脇に置いたクマを一瞥して言えば、クラエスは言葉を詰まらせた。そしてたっぷりと間を置いて、わかりました、と答えたのだった。


 ◆ ◆ ◆


 遮光カーテンの隙間から、眩しい日差しが射し込んでいる。

 ダブルサイズの寝台ベッドにユリアナが寝転がると、隣にガーゼのハンカチを重ねた即席の『敷布シーツ』が、その上に手のひら大のぬいぐるみが置かれ。それを挟んだ向こう側に、クラエスが身を横たえた。

 ――「ここから先は行かない」という意思表示だ。

「さっきはあんなに乗り気だったくせに」

「……思い直したので。あんな風に怯える貴方を見てしまっては、その気にもなれませんよ。今日はただの添い寝です」

「ふうん……」

 枕に頭を預け、「別にいいのに」とユリアナは呟いた。

 そして話は終わりだとばかりに、薄手のブランケットをかけてくるクラエスを前に、けっして愉快ではない気持ちばかりが膨らんでいく。

「ねえ」

「何ですか、さっさと寝てください」

当主トラウゴットからのメッセージカードって、何が書いてあったの?」

「それを聞きますか……。まったく、何で今のタイミングで思い出すんですか」

 ずっと気になっていたのよ、とユリアナは言い返した。トラウゴットからの贈り物である義足に同封されていたメッセージカードには、いったい何が書かれていたのだろう?

 クラエスは暫く黙っていたが、やがて溜息混じりに、その答えを口にした。

「――――、」

「聞こえないわ」

「だから……《優秀な遺伝子を期待する》って書いてあったんですよ! 貴方宛のカードに!」

「……?」

 視線を天井にまで巡らせたところで、言葉の意味を理解する。

「セクハラだわ。いくらあのオークションに各界の著名人が集まるとは言っても」

 しかも実際は義足に擬態した銃だったのだから――そう考えたところで、そういうことね、とユリアナは今度はそのに思い至った。

 腕を伸ばしてぬいぐるみを手に取ると、クラエスにむかって投げつける。慌ててキャッチした青年に体をすり寄せると、「本当の意味を教えてあげるわ」と微笑みながら囁いた。

「え?」

「セクハラには変わりないけどね。ああ、あなたはミナの添い寝でもしてて」

「な、何です――――ちょっ、ちょっと、どこ触ってるんですか!? そ、そこはダメですって!」

 ぎゅっとテディベアを抱き締めた青年に、「昨晩あなたを買ったのは誰?」と意地悪な問いかけをする。

「それは……ユリアナ、貴方ですが」

 ユリアナは微笑んだ。「それなら、今日は私の言うことを聞いてもらうわ」と付け加えて、いたずらな指先を動かす。

「っ、ユリアナ……。ちょっと、いい、加減……」

「ねえ、どうすればいいの? こういうのは初めてなの。どうやったらいいか教えてくれる?」

「ば、バカじゃないですか!? っ……、……!」

「……あなたってこんなにカッコいいのに、意外と免疫がないわよね」

「大きなお世話、で……すから……」

「好きよ、クラエス」

 クラエスの胸もとに頭を預けて、ユリアナはかすれた声で囁きかけた。かすかに息を乱した青年が、苦しそうに片目をすがめる。

 白皙の肌が薄っすらと上気している。ユリアナはクラエスの汗を吸った襯衣シャツに鼻先をこすりつけ、その匂いを嗅いだ。

 トワレの匂いはもうしない。清潔な石鹸の匂い、それから彼自身の匂いだけ。それが心から少女を安心させた。


「……ねえ」

「……今自己嫌悪の真っ最中なんで、話かけないでくれませんか」

「まだ終わるには早いわよ」

「…………まったく」

 クラエスは気だるげに上半身を起こした。

 そしてユリアナの頬に触れると、そっと顔を寄せてくる。けぶるような睫毛のむこう側にある瞳が、熱を孕んで、ユリアナをまなざしていた。

「……本気ですか?」

「あのね、少しだけよ。ミナにばれない程度で」

「……それなら、ほんの少しだけ」

 ぬいぐるみのつぶらな目をハンカチで覆い隠し、クラエスがそっと唇を重ねた。口付けの合間を縫い、「ほんの少しだけ、深くね」――そう付け加えれば、「善処します」とだけ返される。

 皮の厚い、すこしざらつく手のひらが背中に回る。するするとネグリジェの紐が解かれて、ユリアナの背中に夏の空気が触れた。

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