(6)闇オークション、始まる

(ごっ、強姦……!?)

 必死に抵抗を試みるものの、相手の腕力も尋常ではない。を入れたハンドバッグも、生垣に引きずりこまれた際に手を離れてしまった――屈辱的な状況の打開策について考えはじめたとき、暴漢のまとう香りにおぼえがあることに気が付いた。

 ――全身が硬直する。やかましく心臓が早鐘を打つ。

「……ユリアナ」

 触れ合った唇が離れ、耳朶に声を吹き込まれる。

 その瞬間、ユリアナの疑念は確信へと変わった。

「君を狙う者がいる。――合わせて」

 ――バラド、と小さな声で呼びかけようとして、再度口を塞がれる。訳もわからず、しかし只ならぬ気配を感じて、ユリアナは彼の唇を受け入れた。

(……私を狙う者がいる?)

 先ほど響いた銃声音か? ――それでは、今ごろクラエスは?

 そもそも、何故この場所にバラドが居るのか。

 複数の疑問が糸のように絡まり合い、次第にほどけなくなっていく。目の前の唇に、自分に覆いかぶさる男の体温に、意識と感覚のすべてを持っていかれる。

 両頬を包みこんだ手のひらが熱い。音を立ててついばんでくる唇は、その手のひらの内側よりもずっと熱い。互いの粘膜を擦り合わせるだけの行為が、なぜこうも自分の頭を熱で浮かせてしまうのか。

 濡れた舌が唇の表面をなぶるように舐める。そしてその隙間をこじ開けて、ユリアナの内側へと吸い込まれてゆく。

「……ッ、……ラド……」

 ユリアナは、先程口にした言葉を思い返した。

 自分とバラドは、癒着した火傷同士――だからこんなにも、胸が焼けただれたような痛みを感じるのだ。


 バラドにキスをされていたのは、時間にしてほんの数分のことだった。

 彼に押し倒されている間に、薔薇の生垣を挟んだ向こう側の通路を、複数の足音が駆け抜けていった。それが遠ざかって、まったく人の気配を感じられなくなってはじめて、ユリアナは彼の腕から解放されたのだった。

 風が吹き、生け垣の蕾を揺らす。

 ユリアナはむっつりと黙りこみ、地べたに座り込んだまま、乱れた服と髪を整えた。そしておもむろに手袋を外すと、隣に座る男の顔を覗き込み――

 右頬を叩いた。

「――痛い」

「……言いたいことは色々あるけど、この一発で許してあげるわ」

「怒らないでくれ、ユリアナ。手荒に扱ってしまったことは謝るよ。夜の迷路園は暗いし、逢瀬をするにはぴったりだろう? つまり、盛り上がって興じる恋人同士がいてもおかしくない。通り過ぎていった連中も、まさか君とは思わなかったに違いない」

「……言いたいことは何となく分かるけれど、腹の虫は収まらないわ」

「すまない、乱暴すぎたな。しかし、君にぶたれるのも悪くは――」

 さらに左の頬を叩く。

 乾いた音が響き、バラドが苦痛に目をすがめる。「一発じゃなかったのか」と肩を竦めた彼を、ユリアナは無言で睨みつけた。

「ああ……本気で怒らせてしまったか」

 地面に埋め込まれたライトに照らされながら、バラドはばつが悪そうに微笑んだ。よくよく見れば濃紺色のジャケットに黒いトラウザーズ、同色のベストを身につけたタキシード姿――明らかに彼も参加者の一人だ。

(どうしてバラドがオークションに?)

 腕組みをして彼を睨みつけながら、ユリアナは疑問を浮かべた。

 であるという彼は神出鬼没で、世界のどこに居るとも知れない。そのことを問いかけようとした矢先、懐から取り出した懐中時計を一瞥して、バラドは「時間がないな」と呟いた。

 改めてユリアナに向き合ったとき、彼のまなざしは打って変わって真剣なものに変わっていた。

「――先ほども言ったが、君を狙う者がこのオークションにひそんでいる。今の状況をおかしいと思わないか? 何故わざわざ迷路を入り口に選んだのか。夜闇に乗じて暗殺するには持ってこいな環境だからだ。

 ――ここは非合法の領域だから、そういうことも許される」

「……暗殺」

 不穏な響きだ。

「わかるだろう、ユリアナ。君は賢いから……」

「属領出身で、しかも義足の娘が、いきなりファランドール家の後継ぎの座に収まった。社交界に縁故のない小娘が、いったいどんな汚い手を使ってあのトラウゴット・ファランドールを懐柔したのか? その上本人はとても偉そうで憎たらしい。多方面にそのことを気に食わなく思う人間がいるってことね、よく分かるわ」

 そこまで言っていない、とバラドは苦笑した。

「だが、いつもの調子で安心した。――今から伝えるルートを覚えてほしい。最短経路で出口に着く。なるべく早く、この場所を脱出してほしい。オークション会場まで行けば、人目があるから当面の危険は遠のく」

「……でも、クラエスは? どこにいるの?」

「それは俺にもわからない……。ひとまずは自分の身の安全を第一に考えてくれ。出口にさえ辿りつければ、クラエスとも合流できるだろう」

 バラドの言葉に不安を覚えつつ、ユリアナは素直に頷く。ドレスの裾をぎゅっと握りしめながら、語り始めた彼の声に耳を傾けた。

「……大丈夫そうか? もう一度言ったほうがいいか」

「その必要はないわ。ちゃんと覚えたから」

 バラドの伝えた経路を脳内で反芻しつつ、ユリアナは答えた。

 するとバラドは満足そうにうなずき、手袋越しにユリアナの右手を取った。

「……なあに?」

 首を傾げる少女に対し、バラドは黙って両目を細めた。

 数秒の沈黙を置いて、「会いたかったよ」と囁かれる。

「本当はもっと一緒にいたい。だが……詳しくは言えないけれども、俺にもやることがあってね。この先を君をひとりで行かせるのは心苦しいが……」

「私はひとりで大丈夫よ。怖くないもの」

 ユリアナの答えに、「勇気があるのか、無謀なのかわからないな」とバラドが微笑む。

 そしてふと、何に気づいたのか、鼻先を首筋に寄せてきた。

 驚いて肩を揺らす少女をよそに、暫くその匂いを嗅ぎ――一段低い声を響かせる。

「――小賢しいな」

「え?」

「いや、君に言ったわけじゃないよ。今日の香りは、エキゾチックで、野性的で……冒険心あふれる君にはぴったりだ。素敵だよ」

 ありがとう、とユリアナは困惑しつつ礼を言った。

 バラドは笑みを深めるとゆっくりと立ち上がり、地面に座り込んだユリアナにむかって手を差し出した。

 その腕を借りて立ち上がる。ドレスの裾についた葉や枝を払っていると、「後ろを向いてくれないか?」と声をかけられる。

「チョーカーがずれている。待って、今直すから……」

 バラドに背を向けると、うなじのあたりを指先がかすめた。

 留め金を外され、チョーカーが首もとを離れてゆく。外気にさらされた首筋に、心もとなさを覚えた。

 すぐにつけ直してもらえるのかと思えば、ふと、うなじに別のものが触れた。バラドの唇だった。椎骨ついこつの膨らみをゆっくりとなぞられ、その何とも言えない感覚に、ユリアナはぎゅっと拳を握った。

 バラドはくすりと笑い、音を立てて首の裏にキスをする。

 そして次の瞬間――キスをされたのと同じ場所に、ユリアナはチクリと痛みを覚えた。

「――バラド?」

 答えはなく、無言でチョーカーを着けられる。

 怪訝に思って振り返れば、思ったより近い場所に彼の顔があった。コツンと額をぶつけて、「愛しているよ」と小さな声でバラドが囁いた。

 強い夜風が吹き抜けるなか、今にもかき消されてしまいそうな声量で。

 ユリアナは黙ってバラドの目を見上げた。

 目線の先で、見つめ合った黒曜の眸が、柔和にすがめられる。

「行くんだ、ユリアナ」

 ユリアナは物言いたげに唇を震わせた。

 しかし結局、何も言わずに前を向いたのだった。


 ◇ ◇ ◇


 バラドに教えられたルートを辿ってほどなくして、電子錠の設置された塀に当たった。

 彼の話では、ここを超える必要があるという――そのことを思い出しながら、ユリアナはハンドバッグからカードを取り出した。

「あら……。色が違うわ」

 ユリアナの手が握っているのは、両面が黒く塗装されたカードだ。その表面をなぞると、薔薇の形をしたくぼみがあることがわかる。

 一体、何が起きたのか。しかし引き返す余裕もない。戸惑いつつもユリアナが電子錠にカードを通すと、呆気なく目の前の塀が動いた。

(動くってことは、これでも大丈夫……なのかしら?)

 最短経路で進むためには、この先を行くしかない。

 ユリアナは意を決すると、暗闇に包まれた生け垣の道を進んだ。



 暫くして、ユリアナは無事迷路園の外に出た。

 出口の付近に立っていた仮面姿の男から、「会場はあちらになります」と言葉少なに指し示された場所は、薔薇の茂みに囲まれた階段だった。

 ――地下階段だ。

 周囲に人気はなく、夏場の熱気と、夜の静寂しじまだけが周囲に満ちている。嫌な予感を覚えた少女に、何かが差し出された。

「会場にはこちらを身につけてお入りください。――匿名性を確保するためです」

 仮面だった。

 目元を隠すための、シンプルなデザインの白い仮面だ。黙ってそれを受け取って、ユリアナはうなずいた。

 ――匿名性を確保するためとは言っても、自分の義足は特徴的過ぎて、仮面をつけたところで焼け石に水だろう。

 そんなことを考えつつ仮面を身につけ、地下へ通じる階段に足を踏み入れる。

 階段は人ひとりが歩くのがやっとの横幅しかなく、壁のくぼみに据えた蝋燭がちらちらと光りながら、足もとをおぼろげに照らしていた。

 カツン、カツンと、義足の金属音を響かせ、地下へもぐってゆく。すると次第に人々の喧騒が近づいてきた。地下に会場があるので間違いないようだ。

 耳を澄ますかぎり、オークションはずいぶん盛況なようだ――

 階段を降り終えた先には巨大な鉄製の門扉が控えていた。扉を守る警備兵におそるおそる黒色のカードを提示すると、呆気なく入室を許可される。

 音を立てて門扉が開かれると、ユリアナの目に飛び込んできたのは、夜とは程遠い――圧倒的な目映まばゆい世界だった。

 むせるような麝香が鼻をつき、うだるような熱気が肌を包んだ。

 怖々足を踏み入れると、そこが広大な空間であることがわかった。高い天井には巨大なシャンデリアが灯され、空間を形作るあらゆるものを反射させながら、無数の炎が燃え輝いていた。

 人の姿が映り込むほど、磨き抜かれた大理石の床。蔦模様の繊細な透かし彫りを施した白亜の壁、砕いた貝を埋め込んで、七色に光を帯びる天井。

 円形のホールの中央には一段高い壇が設えられ、真上から瀑布たきのように落ちる滑らかなビロウドの幕に四方を覆われていた。

 その壇の周囲には、ユリアナと同じ仮面を身につけた男女が集っている。

「――お次は、ワラキアの娘」

 そのとき、と思わしき、タキシード姿の若い男の声が壇上から響いた。

 すると参加者たちが息を呑み、あるいは談笑とともに、壇を見上げる。四方を覆う幕が、ゆっくりと開かれていった。

 司会の男がステッキを振って合図をすると、穴の開いた壇の中央から、機械音ともに巨大な鳥かごが上昇する。

 電子錠をかけた金属製の鳥かごは二メートル近く、内側には人影があった。

 暗い金髪ブロンド、白皙の肌をした若い娘だった。

 怯えた目で周囲からの視線に耐える娘は衣服を身につけていない。むきだしの肩には、属領ワラキアを示す紋が焼きつけられている――声を失ったユリアナをよそに、司会の男は手を挙げた。

「容姿は見てのとおりですが、体に傷はなく、気性も穏やかで従順。声帯も潰してありますので、脱走リスクは低いと言えましょう。奴隷や使用人にするもよし、子女として養育してみるのも、はたまた遊興で殺すも、購入者の自由――使い道を考えるだけで、夢も膨らみましょう」


「――それでは、一千ハディージャ・ディルハムから」

 

 男が口にしたのは帝国ハディージャの通貨単位だった。

 彼の言葉を皮切りに、壇に群がる参加者が次々と手を挙げ、その値を釣り上げてゆく。

「…………これって、人身売買?」


 ――目の前で繰り広げられているのは、人間を商品としたオークションだった。

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