右足Ⅱ


 数日後、記憶を頼りに路地裏の長屋を尋ねると、そこにバラドの姿はなかった。ガランとした部屋が広がるだけで、夢かまぼろしかのように、忽然と消え失せているのだった。

 規則正しい金属音を響かせて、ユリアナは建物の外階段を降りた。しかし半ばまで来たところで足を止めると、今はもう誰も住んでいない家の扉を振り返る。


 右足が痛む。それが幻肢痛でないことをユリアナは知っている。



 ◇ ◇ ◇


 台所から出てきたクラエスが、コトリと音を立ててテーブルの上に置いたのは、硝子ガラス製のデザートグラスだった。

 薄い青色に色づけられたグラスの上では、大きめのプリンが存在を主張している。ホイップクリームと数種類の果物に飾られて、いつになく豪華な姿だ。

「すごいわ、卵たっぷりの固めプリンだわ。最近流行りの、なめらかだったりとろとろだったりする連中とは一線を画しているわね……すばらしいわ……」

 渡されたスプーンでプリンをつつきながら、ユリアナはふむふむとうなずく。夕食後にクラエスが今日はデザートを用意していると言い、楽しみに待っていたら、このプリンが登場したのだった。

「貴方がそんなにプリン好きだとは知りませんでした」

「好きの度合いで言うと、〝まあまあ〟ってところね」

 プリンの頂点に、クラエスが何かを刺した。――小さな国旗だ。それでも動じることなく直立するプリンに、ユリアナは「やるわね」と呟いた。

「でも何で急にプリンなの? いつもデザートがついても果物程度じゃない」

「別に。材料が余ったからですよ」

 ふうん、とユリアナはうなずいて、スプーンの先でプリンをすくった。口に含もうとしたところで、「でも、生クリームも国旗も常備してあるもんじゃないでしょう」と首を傾げた。

 クラエスは肩を竦めて、長椅子に腰かけるユリアナの横に座った。

 自分が食べる分は出していないから、「食べたかった」というわけでもないだろう。いったいどんな気の変わりようなのか――不思議に思いつつも、プリンを口に運ぶ。

「やっぱりプリンは固めが一番ね」

 金属の足を行儀よく並べて、ユリアナは黙々とプリンを食べた。その間、やけに視線を感る。無視を決め込んだが、一度物言いたげな視線に気づいてしまうと、何となく居心地が悪いのだった。

「――何よ。じっと見てきて」

「……いえ」

「人がプリン食べてるのを眺めて楽しい? たしかに、私は可愛いから見飽きないでしょうけど」

 唇をとがらせてそう言えば、クラエスがあからさまに溜息をつく。「あら、違うのね」と鼻白んで、ユリアナはスプーンをくわえた。

「行儀が悪いですよ。……最近、貴方が元気なさそうに見えたので」

 躊躇ためらいがちに発せられた言葉に、ユリアナは目を細めた。

「そんなことないわよ。いつも通りよ」

「それならいいんですけど」

 クラエスが長い足を組み替える。

 その視線を追って壁の時計を見やれば、そろそろ彼も帰宅する時間だ。

 ユリアナはプリンを半分ほど食べたところで、スプーンを置いた。チラリとクラエスの横顔を伺い、視線を膝に落とす。

 ギンガムチェックのスカートから覗く義足を眺めて、数秒。

「……あのね、バラドに会ったのよ」

 膝の上に握った拳を置いて、ユリアナはつとめて明るく聞こえるように言い放った。

「バラドに? ……先日の?」

「家に来たときのことじゃないわ。数日前、街中で偶然……そう、バッタリ会ったのよ。変な話よね。お尋ね者なのに。それでね……」

 一度そこで口をつぐみかけ、しかし意を決して再度声を出した。

「私、彼についていったのよ。そしたらバラド、寂しかったって言うの。もう大のおとなのくせに、言うことに欠いてそれだから、仕様のない人よね。だから、私――」

「ユリアナ」

 いつになく低い声で名前を呼ばれて、恐る恐る、ユリアナは顔を上げた。

 どことなく渋い顔をしたクラエスが視界に入る。

「私、あなたを怒らせた?」

「……いいえ」

「どうして? 怒ればいいじゃない」

 ユリアナは声を振り絞った。喉の奥に鉛が詰まったように、息苦しさを覚える。

 黙りこくってしまったクラエスを前に、ユリアナはうなだれるしかなかった。膝上に置いた拳に力がもる。

 ふいに、クラエスが腕を伸ばした。叩かれるのかと思って、ユリアナは反射的に肩を強張らせる。しかしその手は、不器用に頭の上に置かれただけだった。

「……よしよし、良い子ですね」

「――何よ」

 おもむろに頭を撫で始めたクラエスを、ユリアナは半眼になって睨みつけた。

「ユリアナちゃんはよく頑張りましたね。すごくえらいです」

「はあ? 馬鹿にしてるの? ふざけないでよ、優しくしてるつもり?」

「バカにしてないし、ふざけてもいません。ちょっと幼児扱いしてみただけです。それに――私が貴方に優しくしなかったら、いったい誰が貴方に優しくするって言うんです?」

 淡青色の瞳が、まっすぐに自分を見つめている。

 ――ふと悔しさを覚えて、ユリアナは唇を噛んだ。

「私、赤ちゃんじゃないし、小さな女の子でもないわ。そんなことされたって、何も嬉しくなんかないんだから」

「でも、今のあなたは……ハグされるのも、キスされるのも嫌そうだ」

 ふと内心を見透かされてしまったようで、ユリアナは慌ててかぶりを振った。彼と触れ合うのが嫌なわけではない。しかしかならずしも幸福な気分になるわけではない。今そうされたら、芋づる式にいろんなことを思い出して、胸が張り裂けて散り散りになってしまいそうだった。

「どうして、わかるのよ」

「わかりますよ。貴方のことですから」

「あてずっぽうだわ。適当に言ってるに違いないわ。ねえ、私のこと馬鹿にしているんでしょう。だから、こんな風に……」

 ふと目の奥が熱くなり、声が震える。みじめさがこみ上げてくると、ユリアナは思わず喉を詰まらせた。肉体を支える骨格がすべて融けてしまったように力を無くして、隣の肩に寄りかかるしかできなくなる。

 薄手の襯衣シャツを握りしめ、顔を押しつければ、温かい指先が髪をいた。これでは泣きじゃくる子ども同然じゃないか、とさらに惨めなきもちになるが、離れることもできなかった。

「世話が焼けますね」

 そうぽつりと呟いたクラエスを睨みつける。「うるさい」と言い返した声も、涙混じりで、軽く笑い返されただけだった。

「ま、傷が痛むってことにしておいてあげますよ」

 そう言って、クラエスが右足の留め金を外した。

 断端部を覆う包帯も外してしまうと、目を逸らしたくなるような傷痕があらわになる。しかしここ数日、頭のなかでぐるぐると回っていたことが、すこしだけ遠のいた。けっして消えはしないが、――それでも。

 ユリアナは目を閉じた。そして小さな動作で、うん、とうなずいたのだった。




「あなただって、私とセックスしたいんでしょう」

 ぐしゃぐしゃに濡れた襯衣シャツを握りしめ、盛大に鼻をすすってからユリアナは呟いた。

 すると視線の先で、クラエスが虚を突かれた表情かおをする。

「変な顔しないでよ」

「貴方が変なことを言いだすからですよ。……そりゃあ、私だって……」

 もごもごと呟いて、視線を彷徨わせたかと思うと、「これは秘密なんですけど」と断り、耳元に唇を寄せてくる。

 囁かれた内容に、ユリアナは瞬時に耳まで顔を赤くする。

「な、なんてことを言うのよ……! ばかじゃないの、よく平気でそんなこと言えるわね!? は、ハレンチだわ……信じられない……!」

「それで、どうしますか。今から?」

「今から!? え、遠慮しておくわ。心の準備が……できてないもの……」

 頭をぶんぶんと左右に振って、ユリアナはクラエスから身を離した。

 「あなたって、そんなことも言うのね……」と火照った頬を両手で挟んで、どうにか熱を冷まそうとする。

「ふふん。今日は一本取りましたね」

「……完敗だわ……」

 そう言うユリアナの唇に、何かが突きつけられる。警戒するようにジロリと見やれば、何のことはない、プリンをすくったスプーンだった。おずおずと口を開くと、固めのプリンのしっかりとした質感と甘みが広がる。

 思わず笑みをこぼせば、「やっぱり好きなんじゃないですか」とからかわれた。

「嫌いなんて最初から言ってないでしょう」

 そう返して、ユリアナはもう一口をねだった。頬にはまだ、熱が残っている。

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