(10)鰐《ナング》

 緊張から熟睡することができなかった。

 浅い眠りをたゆたい、夜中にふと目を覚ましたとき――私は暗い天井を見上げて、胸の動悸が収まるのをじっと待つことしかできなかった。

 頭の奥から警鐘が響き渡る。

 この先、自分は代償を払うことになるのではないか。胸の奥底から滲み出た予感は、拭い去る方法もわからぬまま、漠然とした不安となって私を取り巻いた。指先が震え、恐怖が全身を包み込もうとする。

 そのとき、ふと――「ユリアナ」、と小さな呼び声が聞こえた。

 弾かれたように顔を真横に向ければ、私の手を握ったまま、長椅子にもたれて眠るクラエスの姿が視界に映った。

 寝言のようだ。そのことに気がつき、安堵する。不安を察されたわけではない。

 得体のしれない焦燥感をまぎらわそうと、私は彼の寝顔を眺めた。部屋の片隅にある非常灯が照らすなか、その生えそろった金色の睫毛、きめの細かい肌、髪紐をほどかれて背中を流れる髪――そのひとつひとつをぼんやりと観察する。

「ユリアナ……」

 夢に私が出てきているのだろうか? 再度呟いた彼の唇が、やわらかくほころんだ。

「クラエス」

 思わず呼び返せば、ぴくりと薄い瞼が動いて、そのむこうの碧眼が覗いた。クラエスは眠たげな目で私を見やると、何を感じたのか、握る手に力をめた。

 そして、そっと額にキスをされる。

 彼の体温を感じた瞬間、驚きとともに、緊張や不安で凝り固まっていた胸の奥が、じんわりとほぐれるのがわかった。

「大丈夫……大丈夫ですよ……」

 まだ夢の中にいるのだろう、やけに甘ったるい声に私はクスリと笑って「小さな子どもじゃないのよ」と返した。

 寝ぼけたクラエスは私の頭を撫で、「魔物ジンから守ってあげますからね」と囁く。そして頬をすり寄せると、そのまま眠りに戻ってしまった。

 その顔を呆然と見やり――それからふと、目の奥が熱くなるのを感じた。

 きっとクラエスは小さな頃、こんな風に誰かに添い寝をしてもらったのだ。

 ただそこにいるだけで守ってもらえた経験が、彼を育んだのだとしたら――それはとても……。

 私は彼の手を握り返し、両目を閉じた。

 不安は消えないにしても、ほとんど薄らいでしまっていた。


 ◆


 朝方、クラエスが発掘してきた期限切れの乾パンをかじりながら、私は膝上に置いた電子端末タブレットとにらめっこをしていた。

 ウルヤナが持つデータベースには、遺構第二〇二の衛星写真と詳細な見取り図も用意されており、それを確認しているところだった。

 遺構第二〇二は、衛星写真をみるかぎり、ただの荒地でしかない代物だった。草の根さえ生えない土地には、紋様にも似た形態のサークルがあり――そこから放射状に広がる何らかの装置があるだけ。

「高度な魔術は、発達した科学と見分けがつかない。彼は天才だったが、常人には理解できない……難解で突飛な考えの持ち主であったため、そう揶揄された……」

 ウルヤナの部屋に残された文書にそんな記述があったことを、記憶の片隅に掘り起こす。

 ――《リエービチ》は、魔術的な機構である、と以前に誰かが評した。

 初代の管理者であり開発者でもあるルスラン・カドィロフは、本来、宇宙開発の第一人者であったらしい。彼の手がけた義肢は、宇宙由来の特殊金属を人体工学へと転用した稀な例であり、それが本来の仕事ではなかった。しかしその義肢は、確かにルスランの『魔術的な』部分を確かに体現している。

 乾パンを奥歯で噛み潰し、私はタブレットに映し出された地図をみつめた。

 地上に露出している部分を除けば、遺構第二〇二はごく一般的な建造物であり、複数の階層を持つ地下型施設だった。一〇年前の事故でその一部が損壊したと聞いたから、どこまで信頼できるかは分からないが――その構造を目に焼き付ける。視認できる限りでは、最下層に流れる地下水路カナートがこの研究施設ラボからアクセス可能な唯一の経路のようだ。

 電子端末タブレットの電源を落とし、作業机に置く。

 そこではじめて、私は床に座り込むクラエスを振り返った。

「あなた、ここの武器庫を確認してきたんでしょう? 装備は十分?」

「ええ、まあ、弾の補充くらいはできましたよ。あくまで研究員の護衛用、といったレベルのものでしたがね」

 そう言うクラエスは脇下のホルスターに小型拳銃を挟み、きれいに片づけた床上に広げた自動小銃のパーツを掃除している。

 そして手際よく組み立てていく彼のつむじを視界に、「なにか、私に使えるものはないの?」と問いかけてみる。

 すると彼は顔を上げて、あからさまに渋い表情をしてみせた。

「貴方が? その細腕では何も扱えませんよ。よくて脱臼、最悪骨が折れる」

「クラエス、あなただってずいぶん細腕に見えるわよ」

「こう見えて脱ぐとすごいんですよ」

 そうだっけ、と唇をとがらせる私に、何かが投げ渡される――弾丸だ。掴み取ったそれを電灯にかざすと、金色の表面がキラリと反射する。

「薬莢に擬態した爆薬です。誰の趣向かは知りませんが、この家の武器庫に転がっていました。何かあったら使えばいい」

 とがった先端には短いピンが刺さり、それを抜けば――というわけらしい。

 私はそれをスカートのポケットに入れると、ありがとう、と囁いた。

「まあ、使わないことに越したことはないんですが」

「そうね」

「私がいついかなるときでも貴方を守れるわけじゃない」

 自動小銃を抱え、クラエスが立ち上がった。私は身につけていた白衣を脱ぎながら、そうね、と答える――背を向けてしまったから、彼の顔が見えているわけではない。しかし手に取るように、どんな表情かおをしているかがわかった。

「そんな顔をしないでよ。別に死にに行くわけでもないし――欲しい言葉なら昨晩のあなたにもらったもの。……ねえ、そろそろ行くわよ」

「……昨晩?」

「おぼえてないならそれでいいわ」

 白衣をきれいに折りたたみ、椅子の上に置く。怪訝な顔をしたクラエスを部屋の外に追いやり、私もまた、ドアの横に立って室内の電源に手を伸ばした。

 ぱちん、と音が鳴り、ウルヤナの書斎が真っ暗になる。

 一瞬、私は名残惜しげに暗闇を見つめ――やがて、背を向けた。



 研究施設ラボの連絡通路を歩き始めてから、数十分。どこからか水の音が聞こえてはじめるとともに、周囲を照らす非常灯の種類が変わった。

 右足の靴越しに、ぬるつく苔の感触がした。どこからか滴り落ちる水の音が聞こえてくる。

地下水路カナートに入りましたね」

 先導するクラエスの声にうなずく。地図上では、ここから一キロほど進んだ先に遺構へと上がる階段があるはずだ。

 私たちは導水路の脇にある通用路を進んでいた。水路にはわずかな量の水が停滞し、悪臭を放っている。通用路の端に設置された手すりは赤さび、すこしでも寄りかかろうものならば脆く崩れ落ちるに違いない。――その先にあるのは汚水だ。

「……っ、」

 警戒しなければ、と思った矢先に、義足をすべらせた。つんのめり、体勢を崩した私の腕を、とっさにクラエスが掴んだ。

「気を付けてください――」

 そう言って私の腰を抱き寄せた彼は、次の瞬間、弾かれたように正面を向いた。無言のまま腕を解かれ、背後へと追いやられる。

 クラエスは暗闇を睨みつけ――そして、小さな声で囁いた。

「……ナングだ」

 ナング? と目をみはる私は、それと同時に感じた風圧に後ずさった。ハラハラと、金色の髪が数本宙を舞う。

 私たちの眼前で――大きな半月刀シャムシールがひるがえったのだ。

「後方へ!」

 クラエスの叫び声につま弾かれ、私は走り出そうとする。しかし義足の質量にままならず、あやうく転びかけただけだった。その矢先に視界に映ったもの――銃を構えたクラエスのむこうに佇む、複数の人影。全身を覆う黒々とした装甲の表面に浮かんだ、銀色のうろこ模様。

 間断なく銃撃が響く。気が付けば真横に回っていたクラエスが片腕で私の体を抱え上げた。そして戸惑うことなく、通路脇の手すりを飛び越えた。

ナングは皇帝直属軍の特殊作戦部隊――――つまり、最悪の相手です」

 ――私たちは、汚水のなかへと飛び込んだ。

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