(8)鉄の味
――そこから先のことはよく覚えていない。
クラエスの腕の中で、私は昏倒した。次に目を覚ましたとき、視界に飛び込んできたのは見慣れない天井だった。
硬いマットレスを敷いた
「――大丈夫ですか?」
それを支えたのは、背中に差し入れられた温かい腕――頬に垂れたやわらかい毛束に
間を置かず、淡青色の瞳と視線が重なる。彼は優しく目を細めた。
「脳震盪を起こしたんでしょう。吐き気は? まだ眩暈がしますか?」
「……ちょっと頭が痛いくらいだわ……。それ以外は、特に」
私の背中を厚手の枕で支えながら、それなら、とクラエスが安堵の溜息をつく。寝台の横に寄せた椅子に座り直す彼を、私は暫し呆然と眺め――それから、ふと我に返った。
「ここはどこ? あれから……」
視線をぐるりと巡らせると、自分が寝かされた小さなパイプベッド――そして殺風景な、窓のない小部屋の全容が目に入った。明らかに近代的な施設だ。
少なくとも山中は脱したようだと考えた私は、続いたクラエスの答えに驚くこととなった。
「ここは遺構第二〇二の地下空間に併設された、
「………
耳に残った単語を繰り返し、私は目を
何故そのような場所を、彼が知っているのか? それよりも、先ほど山中で聞いた言葉の真意は? 堰を切ったように疑問が沸き起こった。それらを解消しようと顔を上げる私を横目に、クラエスが突然立ち上がった。
膝の上に力なく置いていた手に、ぽすん、とバスタオルを投げ置かれる。
「この施設は一〇年も放置されていたようですが、さきほど確認したところ、最低限のインフラは生きていました。まずはその泥だらけの頭をどうにかしてきてはどうですか?」
「……クラエス、その」
そんな場合じゃないでしょう、とか、今大事なことを聞こうとしたのに、とか――威勢よく言い返すこともはばかられた。
結局、黙ってうなずくしかなかった。
「場所はわかりますか?」
「たぶん――迷ったら呼ぶわ」
泥水を吸ってごわつく髪をかき上げ、答える。ゆっくりと身を起こし、床に右足をつける。ひび割れた義足が視界に入ると、私は目を細めた。
この
太陽光の届かない細長い廊下を、非常灯の暗いみどりの光が照らしている。
なぜだろうか、胸の奥がひやりと渇く感じがした。
晩秋の山中からは一変した、無機質で息の詰まる空間。けれどもどこか肌なじみが良い冷気があたりを満たしている。
ほどなくして
「……なかなか戻ってこないと思ったら、何て恰好してるんですか」
開口一番にそう言って、クラエスは大袈裟な溜息をついた。
私は狭い
「仕方ないじゃない。あんな汚い服、着たままじゃいられないわ。もうすこしで終わるから待ってて」
「人が心配して来てみれば……心配しただけ損でしたね」
クラエスは溜息をついて、目もとを手で覆った。「見るに耐えない」と呟かれるのに、仕方ないじゃない、と思わず唇をとがらせる。
散々泥のなかで暴れまわったせいで、上着もスカートもタイツも、着ていたあらゆる服が汚れてしまったのだ。かろうじて洗濯ドラムの底に残っていた男物の
渋い顔をする私を一瞥すると、クラエスはやれやれとばかりに肩を竦め、ベンチに落ちていたタオルを拾い上げた。「髪も濡れたままだし」その言葉とともに、頭をタオルに包まれる。
ごしごしと髪を拭かれながら、私は至近距離にあるクラエスの首を――その先にある端正な顔をじっと見つめた。
「あんまり睨まないでくれませんか? やりづらいので」
その言葉にはあえて答えなかった。
代わりに、正面に迫った軍服のネクタイを引っ張った。予想だにしていなかったのだろう、クラエスが目を丸くする。ふたりもろともベンチに倒れ込んだのに、慌てて彼は身を起こそうとするが、私はそれを引き止めた。
「――傷が痛むの」
クラエスの頭を右腕で抱き、白い耳たぶに声を囁き入れる。
「……頭の傷が?」
心配そうに問いかける彼の手を掴み、右足のつけ根に誘導する。「古傷よ」と小さな声で返しながら。
「冷えるのよ……ここが……。さすって、クラエス」
私の声に、クラエスが淡青色の瞳を揺らした。折り重なった体の間に腕を入れ、義足を外す。パチンと器具の取れる音がして、あるべき質量が失われた。
それを床に放る。義足は、暗闇のなかでももはや光らない。
ごうん、ごうん、と洗濯機のドラムが回る音が響く。非常灯の明かりが頭上で点滅していた。その緑色の光に、クラエスの白金色の髪が透けている。
クラエスの手は、鉛のように沈黙を保ち、私の切断痕に添えられているだけ。
「……変だ、ユリアナ」
「何が?」
「いったい何を考えているんですか」
その言葉に、私はかすかに苛立った。しかしその衝動を
手を伸ばして、クラエスの長い横髪をかき上げる。形のよい耳に触れれば、びくりと眼前で肩が揺れた。ふたり分の体が重なって、あらゆる部分の皮膚が密着している。熱いくらいだったが、私の指先は冷たいままだった。――氷のように。
「報酬をあげると言っているの」
古傷をさまよった指先が、私の身につけた
間を置かず、頬をぶたれた。
「――貴方は私を馬鹿にしている。私はそんなもののために、貴方を助けたわけじゃない……!」
衝撃に歯が食い込み、内側の粘膜が切れる。ぶたれた部分が熱をもって、ジンジンと痛んだ。
私は頬を手で押さえて、激昂するクラエスの目を睨み返した。
「じゃあなんであんなことをしたのよ。あなた、自分が何をしたか分かっているの? ――自分が何を捨てたのか!」
エレノアの怒声が頭の中にこびりついている。
帰属していた組織――地位や信頼、そして
それを眼前で、彼はかなぐり捨てたのだ。
「たしかに、私はあなたに味方になってほしいって言ったわ。助けてほしいって言ったわ。――私、自分の言葉がどれくらいの重みがあるものなのか、全然わかってなかった。こんな風に、あなたが大切にしているものまで、棄ててほしくなかった……!」
「――承知の上だ。貴方にどうこう言われる筋合いはない」
クラエスが吐き捨てる。両手首を力強く掴まれたのに、私は激しく身をよじって抵抗した。
「貴方が私に味方になってほしいと言ったように、私も貴方の味方になろうと思った。だから、
「――何で」
脳裏を
――〝社会見学〟ですよ。トラウゴット殿――ファランドール家の当主からの要請で、今回の私の任務に連れて行けと。ああ、エレノアには告げ口しないでくださいね。私が殺されてしまうので――
思い返せば、不審な点はあった。いくら協力体制を
クラエスはエレノアの《駒》として働く傍ら――それを利用すらして――私の父親と通じたのだ。自分の利益のためではなく、私の「味方になってほしい」という願いのために。
「何で、そんな……あなたに良いことなんて、なにも……なにもないじゃない……」
「どうして貴方はそんなにも疑い深いんですか? 良い面もあるが、今ばかりはそれが憎らしい。何かメリットがなければ、誰も自分を助けないと思っている」
「何でって聞いているのよ、クラエス!」
彼の言葉を遮り、私は甲高く声を張り上げた。一瞬、怯んだようにクラエスは目を眇めたが、すぐに怒鳴り返してきた。
「私だって、最初は貴方のことを嫌っていた。頭でっかちの小娘に過ぎないともね。でも全身で苦難に立ち向かう貴方を見ているうちに、その考えも変わった。こんなに小さな体なのに……」
「馬鹿にしないで」
「馬鹿にしてない。ただの言葉の綾だ。貴方を尊敬したんだ、ユリアナ。貴方のことを尊重しなければいけないと思った」
「そんな理由で、自分を追い込むようなことをするの?」
「ユリアナ。今、私は貴方が不憫だ。貴方は掛け値なしの信頼をしらないんだ。だから味方になってほしいと言うし、今のような態度を取ったりする。――無償の愛さえも信じていない」
その言葉に、弾かれたように私は顔を上げた。淡青色の瞳を、まっすぐに見つめ――それから、耐えきれずに顔を背ける。
無償の愛を知らない、このひとは私にそう言った。
それは他でもなく――私がバラドに対して抱いた思いでもあった。私は彼に《試行》は失敗していないと語りかけながらも、心の底で――そのことを疑っていたのではないか?
だから、私は…………。
「ユリアナ」
ぐったりと全身から力を抜いた私に、クラエスが呼びかける。
硬い手のひらが、前髪をかき上げる。
「ユリアナ、泣かないで」
指先が目じりで膨らんだ水滴をすくう。後から後から、それはこぼれ落ちた。
「私は何も後悔していない。自分の心の声に従って、それをちゃんとまっとうしている。そんな自分を誇らしく思っているんですよ」
「あなた、本当にバカよ……。私がバラドと何をしたか知らないから、そんなこと言えるのよ」
クラエスの腕を振り払うと、ひとりベンチの上に崩れ落ちた。泣き顔を隠すように、自分の両腕で頭を抱え込む。
「私、あのひとに媚びていたんだわ。そうじゃないと、あのひとからの信頼や愛情を引き出せなかったから。――それがあたりまえだった。この十年間、ずっと」
「……本当に?」
肩に触れた手に、びくりと体を揺らした。ゆっくりと髪を、頭を撫でられる。私は小さく縮こまりながら、体を震わせた。
「後悔してないわ。自分のしたことだもの。でも、それが他人にどう受け取られるかは別の話よ。あなたは私が損なわれていると思うかも」
「弱気な貴方は珍しい。額に入れて飾りたいくらいですね」
ユリアナ、と再度呼びかけられる。
渋々、顔を庇っていた腕を外した――至近距離にクラエスの顔がある。
――と思えば、次の瞬間、口づけられた。羽のように軽いキスで、その体温はすぐに離れてゆく。
「……これが私の答えです」
勝ち誇ったような――それでいて柔らかな笑みを向けられ、私は硬直した。
冷え切った体に、じわじわと熱い血が通い始めるを感じる。全身がむずむずとして、頭が沸騰しそうになった。――
「……クラエス」
ほとんど衝動のまま、彼の横髪を掴んだ。一度は離れた頭を引き寄せ、その唇に噛みついた。とっさのことに怯んだのか、わずかに空いた隙間から舌をねじ込む。そして、奥に引っ込もうとした彼の舌を引きずりだした。
そしてその舌を噛みしめた。――力いっぱい。
鉄の味が口内に広がる。しばらく名残惜しむようにその舌を噛んで、口を離すと、血の入り混じった唾液が私たちの唇を繋いだ。
面を食らったような
「ぶってくれたお礼よ。口の中が切れたの」
――洗濯が終わったことを報せるアラームが鳴った。
何事もなかったように、義足を拾い上げ、それを装着する。
「……その、ユリアナ」
「何よ」
振り返れば、頬を紅潮させた男の姿があった。唇を手で覆い、クラエスはそのまま口ごもってしまった。
「……あなた、絶対後悔するわ。先に言っておくけど」
目尻に溜まった涙を拭い、私はにこりともせずに言い放った。洗濯の終わった衣服を乾燥機に移し替えながら、「いい加減、これからの話をしましょう」と続けた。
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