(7)約束


 クラエス、と口を突いた声に彼は微笑んだ。

 背後から吹いた風が、長い金髪を揺らす。淡青色の瞳が私を見つめたのは一瞬だけで、すぐに銃の矛先と同じ――エレノアへと向けられる。

 エレノアはすぐに体勢を立て直した。まっすぐに背を伸ばし、赤毛を暴風にもつれさせながらも悠然とぬかるむ道の上に佇んでいる。彼女は風に掻き消されないようにと声を張り上げた。

「何のつもりだ、クラエス。何故私を撃とうとした?」

 動きかけた自身の部下を片腕で制し、ゆっくりと問う。

 声音こそいつもと変わらないが――周囲の緊張感は確実に高まった。

「……私はそこの娘の護衛です。貴方も知っているでしょう」

 飄々とした態度を崩さないまま、クラエスは静かに言い返した。

「笑止。この娘を護ることに何の価値がある? 何の意味が? まさかとは思うが、裏切るつもりか? 皇帝直属軍イェニチェリを――ハクスリー家の人間でありながら?」

 打って変わって、エレノアは低く掠れた声で囁きかけた――その言葉をきっかけとして、私の脳裏にはふたつの異なる火傷痕がぎった。クラエスの背に捺された悪竜ヴィシャップの焼き印、そして属領人であることを示す《紋》。焼け爛れた《紋》の上には、人為的に刻まれた剣の跡があった。

 クラエスの生い立ちについて、私が知っていることはわずかだ。彼の口から聞いたことはあっても、彼がどんな苦労をしてきたのか、どれほどのしがらみを負っているのか、正確なところを知らない。彼の背中にあるものが、彼の人生から切り離せないものであることしかわからない。そして今この瞬間――彼の行動が、その一挙一動が、エレノアに背くものであるということしか。

「貴方が言うとおり、私はハクスリー家に生まれた人間だ。それについては弁解の余地はないし、軍にとってだけでなく――貴方に対する裏切りであることもわかっている。どちらにせよ、私以上に『剣であること』に固執する貴方の理解は得られない」

 淡々とした声、どこか突き放した態度のクラエスに、エレノアはわずかに肩を揺らした。彼女は弾かれたように形のよいおとがいを跳ね上げる。

「まさか。――ファランドール家と通じたのか、クラエス」

 彼女の指摘に、私は目をみはった。と同時に、エレノアの怒号が山中の静寂を切り裂く――。

「何のためにあの悪魔に魂を売った!? 寄りにも寄ってお前が――父上ユリウスに愛されたお前が!? 自ら剣を棄て、その足枷を外そうというのか? 死の商人がいったいお前に何をもたらすというのだ。父上の期待を裏切り、一生を属領人という屈辱のなかで過ごすつもりか? 『剣』を貫くことだけが、われわれに残された唯一の《反抗》だというのに……!?」

 樹々から一斉に鳥が飛び立った。彼女の声は、皇帝直属軍イェニチェリの立場から沸き立つだけでない、なみなみならぬ情動に打ち震えていた。しかし正面から激しい怒声を浴びせられたところで、クラエスは顔色ひとつ変えなかった。

「もともと、打診は受けていた。けれども態度を決めかねていた。私は皇帝直属軍イェニチェリであることを憎んでいたが、そこには貴女がいたから。同じハクスリー家の人間で、私以上に剣であることに囚われた不憫な貴女が……」

 しかし、とクラエスは唇を引き結んだ。まっすぐに姉を見据えた淡青色の双眸には、はっきりとした拒絶が浮かんでいた。

「……けれども、もう貴方にはついていけない。私にその氷のような孤独を融かすことはできない――貴方を憐れんでいるんだ、エレノア。どれほどみじめだとさげすまれ、屈辱に甘んじていると言われようとも、私は貴女に賛同できない。これ以上不憫なあなたを見るくらいならば、そこの娘の撃鉄となって……貴女を」

 クラエスの言葉を前に、エレノアはふいにこうべを垂れた。もつれ合う赤毛が肩を流れ、長い前髪の隙間から青い瞳が覗いた。

「そうか、クラエス。お前も私を裏切るか。私に背いてきた大多数の人間と同じように……私を憐れむのか? 鎮雨ジンウのように? ――滑稽だ。私を道化か何かだと勘違いしているんだ、お前たちは」

 低く――かすれた声でエレノアは呟き。顔を上げると、「ならば排除するのみ」と言い放った。外套マントの裾が翻り、彼女が手を挙げようとする。

 背後の軍人が銃を構えようとするその瞬間、私はとっさに声を張り上げた。

「――待って」

 緊張に指先が震える。身につけていた外套の内ポケットから、私はを取り出した。指の爪先ほどしかないマイクロチップが、太陽光を反射した。

「《黒鳥》の設計図よ。クラエスに手出しをするなら――」

 言い終える間もなく、私は腹部に衝撃を受けた。

 蹴り上げられたと理解したのは一拍遅れてからで、革靴の硬い先端が鳩尾にめり込んでいた。嘔吐感がこみあげ、視界が暗転して気絶しかける。

「調子に乗るな、小娘が――!」

 マイクロチップを握る腕を掴まれ、我に返った。

「お前のような小娘に何かができると思ったら大違いだ。勘違いも甚だしい。私と対等に渡り合おうと思うなよ。義足がなければ満足に歩けない、誰かに守られていなければ両足で立てもしない子ども風情が!」

 道の泥濘ぬかるみのなかで引きずり回されながら、それを手離すまいと必死に拳を握り込んだ。容赦なく背中を踏みにじられ、うつ伏せに地面に臥す。口や鼻から液状の泥水が侵入するが、背骨を圧迫されてからだを起こせない。

「馬鹿らしい、滑稽だ。お前も、クラエスも――一生を屈辱のなかで這いまわりながら死ねばいい! 無力さを、非力さを――力が無ければ何にも抗えない脆弱な身を呪いながら!」

 エレノアの声は氷のように硬く張り詰め、同時に隠しきれない情動に揺れていた。何がそこまで彼女を刺激し、激高させるのか、朦朧とした頭では分からない。

 右腕をひねられ、握りしめた拳に指先をねじこまれる。それでも私が掌を開かないとわかると、爪を立てられた。皮膚が裂け、親指の爪に圧力をかけられ――一拍置いてそれが剥がれ落ちる感覚にも、必死になって歯を食いしばった。悲鳴を聞かれたくないという思いがあった。

 ――そのとき、連続して複数の銃声音が響き渡った。

「……っ」

 次の瞬間、腕が開放された。とっさに身を起こした私の目に、突き飛ばされたエレノアの姿が目に入る。

 彼女が手にした自動小銃が弾かれて宙を飛び、その肩口から鮮血がほとばしる――背後にあった木の幹にぶつかり、エレノアが呻いた。

 その光景から目を離すことができない。

 呆然とする私の視界に、クラエスの顔が映り込む。

「――行きますよ」

 短く、それだけを言う。

 泥水のなかから身を掬いあげられたとき、私の視界に映り込んだのは、血だまりのなかで地に臥した軍人たちの姿だった。エレノアの注意が私に向いているうちに、クラエスが撃ったに違いなかった。走り出した彼に抱えられながら、水色の瞳を、食い入るようにみつめる。

 彼は自分の味方を撃ったのだ。そして自身の姉にまで手を上げた。

 ――裏切ったのだ。

 そうさせたのは、他の誰でもない――私自身なのだ。

 不安を感じ取ったのか、クラエスは目を細めた。そして私の顔にかかった泥をやや乱暴に拭いとると、不満そうに鼻を鳴らした。

「忘れたんですか? まったく」

 しかしその一方で、薄い唇に優しい笑みをたたえたのだった。

「――貴方の味方になるって、約束したでしょう」

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