(3)洞窟のイドラ

 夜闇に溶け込むかのような黒づくめの服装。右手に握られた拳銃。けれどもその顔、その表情だけは、私の知る彼と何ら変わりがない。

 ――優しい後見人のバラド。

「ユリアナをこちらに渡すんだ、クラエス。彼女の身柄は難民解放戦線が確保する」

 冷たい目でクラエスを一瞥し、すぐにその視線を彼の背後――私へと向ける。いつもと同じ優しげな眼差しに、かえって強烈な違和感をおぼえた。

「ずっと君のことを考えていたんだ。思い出していた、と言うほうが正確かもしれない。一〇年前、俺は――ある人の表現を借りるならば、ひとつの《試行》をしようと思った」

「――ユリアナ。下がって」

 深いやぶをかき分けて歩み出たバラドに対し、クラエスが私を庇うように一歩前に立つ。外套コートを身につけていない骨ばった背が、視界を埋めた。

 私は微動だにもできず――クラエスの肩越しに、バラドをみつめた。その場に縫い止められてしまったように、呼吸さえままならなかったのだ。彼のことを考えると、胸がきつく引き絞られたかのような痛みをおぼえる。

 バラドは口もとに淡い笑みをたたえ、拳銃をわずかに上向けた。

 そして淡々と、抑揚のない声で語り始める。――私だけをみつめて。

「俺の話をしよう。君の知りたがっていた、〝本当〟の俺の話だ。

 俺は孤児で、アラムという養い親がいた。《難民解放戦線》の頭領だ。彼は支配的で、けっして愛情を与えるような人間ではなかった。俺は彼によって、〝アラクセス独立〟の駒として育てられた。自分に忠実で、かつ、いつでも捨てられる駒――そのためには『アラクセス人でないこと』が必要不可欠で、結果として俺が選ばれたんだ。そして運よく俺は優秀だった。大抵のことはそつなくできる人間で、だからこそ、養い親だけでなく――誰からも必要とされる存在になれた。

 その一方で、いつまで経っても、誰かの絶対にはなれなかった。アラクセス人でない俺に《難民解放戦線》はよそよそしく……養い親アラムの指示でファランドール家に入ろうとも、この胸に巣食った空虚が癒えることはなかった……」

 「このあたりにずっと穴があるようだった」バラドはすこし乱暴な動作で、自分の左胸に手を当てた。口もとの笑みが、自嘲へと変わってゆく。

 ――ふと虚空をみつめた彼の双眸は、からからに渇いていて、ひりつくような痛みを帯びていた。

「いつだって誰かの期待に応えるために努力したし、実際にそれだけの能力があった。けれども、誰も俺をほんとうの意味では迎え入れなかった。表面上はどんなに親しくふるまおうとも、常に軽蔑され、侮られてきた。薄汚い孤児、自分の言うことを聞くだけの人形、体のよい捨て駒……俺という存在を誰も認めず、尊重しなかった。そもそも、俺の内側に何もなかったのかもしれない。誰かに大事にされるような『何か』が。その『何か』が培われることも。……虚しさだけだ。

 けれども片足を撃たれて、血だまりに横たわるきみをみたとき……ふと、ある考えが頭に浮かんだ」

 ゆっくりと顔を上げ、バラドはささやいた。夜色の目を細めて。

「――俺は誰かを愛せるのか?」

 男の吐露に、私は息を詰めた――その瞬間、彼の片腕が上がった。

 一度だけ、乾いた発砲音が鳴る。

「だが、失敗した! 《試行》は失敗したんだ、ユリアナ! 精いっぱい君を愛そうとした。事実、俺は優しい男だったはずだ、君をいつくしんだはずだ――そう演じたからだ。演じることさえ続ければ、今は嘘でも――いつかは本当になると信じていた! だが、俺の心はいつも渇いていた。欲望だけが膨らむばかりだった……」

 弾丸はクラエスの足もとの土を抉った。それでもクラエスが身動きしないのは、すぐ傍に私が立っているからに他ならなかった。

「君を愛するよりも支配したいと思ってしまった。養い親アラムが俺を手もとに置いたように、俺に従順な人間がほしいと思ってしまった。優しさの檻で君を閉じ込めてしまいたかった。俺以外を知らない、俺以外の世界を知らないまま、俺と一緒に死んでくれるような! そういうふうに――支配する、支配される以外でしか、誰かと緊密に繋がることに耐えられなかった。

 結局、そのことに気が付いただけだった! だから……!」

 だから――その先、彼は何と言おうとしたのだろう? 立て続けに響いた発砲音、そして耳をつんざくような金属の反響音に、バラドの声はかき消された。

 ふいにクラエスの掲げた腕の先に、小型の半月刀シャムシールがあった。バラドの弾丸をその刃で弾いたと理解したのは、一拍遅れてからだった。

「――ユリアナを渡せ、クラエス!」

 苛立ちの募るバラドの声は、ほとんど叫びに近いものだった。銃を振りかざした男が前へと踏み出そうとした瞬間、私の視界で見慣れた金髪が闇を跳ねた。

 砂利を蹴る音が響く。バラドが手もとの銃を数発撃ったが、そのどれも命中することはなく、クラエスが彼の正面へと迫る。

 鈍い衝突音とともに、大柄な男のバランスが崩れた。

 拳銃が宙を舞い、ガシャンと音を立ててカンテラが地に落ちた。刹那、叢に燃え広がった青い炎が映し出したのは、地上でもつれ合いながら取っ組み合うふたりの男の姿だった。

「――――憐れなひとですね、貴方も」

 白い手袋越しに、血が糸を引いて滴った。上からしかかるバラドの小剣を、クラエスが握っている。彼は顔色ひとつ変えずに、半月刀を男の首に押し当てていた。

「泣かない赤子にミルクは与えられないという言葉がありますね。でもだからと言って、それは誰かに媚びるという意味じゃない」

 バラドの剣がクラエスの手を振り払い、宙を掻く。ちぎれた金髪が風によって闇のなかに散らばる。砂利を擦る音が響いて、ふたりの体が地の上で反転した。

「私は貴方を憐れまずにはいられない。気の毒だ。誰かに愛されることに耐えられないなんて」

「お前には何もわからないだろう、クラエス」

「ええこれっぽっちも。でも――これ以上、貴方の独りよがりにユリアナを付き合わせる気になれないのは事実です」

 そしてついにバラドの剣が弾かれた。それがやぶのなかへ着地するよりも先に、半月刀シャムシールが月明かりを反射してぎらついた光を放つ。

「――クラエス!」

 私は息を呑んだ。彼の掲げた剣が、バラドの命を奪おうという確固たる意志を持って、その軌跡を描きかけた――走りだそうとしたその矢先、やぶのむこうにある斜面の上から、大きな爆発音が響き渡った。

 地が小刻みに震え、頭上から砂が降ってくる。頂上付近の斜面が抉れるようにすべり落ちたのはそれから間もなくのこと――土砂だ。

 山頂付近で何かが爆発し、その衝撃で山がくずれたのだ。

「……っ」

 舌打ちをして、クラエスがバラドの上を飛びのく。

 そして私の腕を引っ張ると、「退避しますよ」と叫んだ。

「でも、バラドが」

「ユリアナ」

 クラエスが腕を引くのに、それでも私はその場から動けなかった。ゆっくりと地面から立ち上がった男から、目を離せなかった。

 ――バラドは、私を愛せなかったと言った。

 そのことにひどく打ちのめされていた。彼が私を愛さなかったことではない。結局、本当の意味でことに……。

 彼の『慟哭』ともいえる声が、私の耳のなかにこびりついている。

「ユリアナ!」

 強い語調でふたたび呼ばれて、ようやく私はクラエスを振り返った。そして、弾かれたようにその場を駆け出す。土砂は既に目前にまで迫っていた。

 無我夢中で山道を駈け下りると、水の音が近づいてくるのが分かった。私は振り返りたくなる衝動をこらえながら、必死に目の前の背を追いかけた。

 そしてその矢先、「何か」を踏んだことに気が付き――ほとんど本能的に、ぴたりと足を止めた。

 体から汗が噴き出すのがわかった。突然立ち止まった私をクラエスが振り返ろうとするのに、とっさに、私は彼を突き飛ばした。

 私たちを分断するように土砂が流れ落ちる。私は強ばる顔を上げ、声を張り上げた。

「クラエス、先に行って! この土砂じゃそっち側に行けないわ。私は別の道から行くから」

「でも、ユリアナ――」

 クラエスは私が踏んだものに気が付いてはいない様子だった。

 このままふたりで立ち往生するべきではない。私は必死になってまくし立てた。

「大丈夫。すぐに合流するわ。山の地図は頭に入れたもの」

 逡巡するように視線をさまよわせ、クラエスはようやくうなずいた。「かならず」――そう囁いて、彼が背を向ける。

 その背が遠ざかるのを見届けてから、じわじわと、恐怖感がこみ上げてくるのがわかった。私は右足を載せたものの上から、ほんのすこしも体重を移動できないでいた。


 ――代表的なものは対人地雷ですね。大方、過去に皇帝直属軍イェニチェリがゲリラ部隊を掃討した際に撤去されたはずですが……。


 クラエスの言葉が頭に蘇る。あの口ぶりだと、これが運よく不発地雷である可能性は低そうだ――くわえて、頭上の斜面には不穏な気配があった。

 先ほどの規模ほどでは無いにしろ、山頂付近では場所を移動しながら爆発が続いていた。まるで何かを狙いすましたように。

 どうにかしてこの状況を打破しようと、ほんのわずかな情報も逃さないようにと五感が冴え渡るのがわかった。私は往生際が悪い。でもほんとうに、この状況から脱せるのだろうか?

 ――水の音が近い。背後は崖だ。その下にはきっと川が流れている。

 ふと――遠巻きに、誰かの足音が聞こえた。徐々に駆け足に変わって、私のもとへとやってくる。

「――ユリアナ。何故ここに…………地雷を踏んだのか」

「そうみたい」

 バラドだった。彼はとっさにその場に屈み込み、「すぐに解除するから」と、切羽詰まった口調で言い放った。そして地雷に手を伸ばそうとする。

 その姿に――胸がきつく絞られるのがわかった。先ほどの彼の姿を思い返してしまったからだ。『演じればいつかは本当になる』――そう口にしたバラドの姿が。

「間に合わないわ。すぐに土砂がここに」

「間に合わせる」

「あなたでも無茶なことをするのね、はじめて知ったわ」

「そうでもしないと、お前が……」

 バラドはふと、顔を上げ――私の目を見た。

 夜色の目に、私の青い目が映り込む。

 パラパラと砂塵が宙を舞った。私は彼の目を見つめながら――ある種の予感が胸に芽生えるのを理解した。

「――それなら、私の手を握って」

 囁くように言い放つと、バラドは真顔で――差し出した手を掴んだ。

 握って、力を籠める。子どもがすがるように。

「ありがとう、これで怖くないわ。死ぬことだって」

 私の言葉を受けて、ふと、その目が揺れた。バラドはゆっくりと立ち上がり、手を握ったまま、普段よりもずっとぎこちなく――私の体を抱擁する。そのかいなに触れて、私は微笑んだ。こんな状況下であるというのに、恐怖はもう消えてしまっていた。

「――大丈夫よ、バラド。私が貴方の《試行》を証明してあげる」

 そのとき轟音とともに、土砂が私たちを飲み込もうとする――私は迷わず、を地から離した。

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