―幕間―

 クラエスはふと足を止めた。

 視界の片隅に、ある人物が映ったからだった。まさかと思い、目を向ける。――崩れかけた塀の前に、ひとりの男がしゃがみこんでいた。餌を食べる猫を眺めるその顔に、彼は見覚えがあった。

「……バラド」

 縫い目のない黒い長衣フスターンを身につけ、砂除けの布を顔に巻きつけた男だった。彼は無言で、クラエスを見上げた。――そして、わずかに笑ったように思われたのだった。

「素顔で会うのは久しぶりだ」

 黒曜の目を細める。

 バラドはゆっくりと立ち上がった。男の作りだした影のなかで、餌を食べ終えたブチ猫がいぶかしげに顔を上げる。

「ここで餌付けをしているんだ。時間になると、こいつだけがくる」

 ひらりと尻尾を振って塀の上に飛びあがり、猫は広場の奥へと消えていった。空には残照だけが残って、太陽はほとんど落ちかけていた。

 日中よりもずいぶん涼しくなった風が、バラドのまとう長衣の裾をもてあそんでいた。クラエスは猫の消えた方角をじっとみつめ、何を言葉にすべきか、逡巡をくり返していた。

 そんな彼の様子を見透かしたのか、バラドが口を開いた。

「……お前には悪かったと思っている」

 そう言って目だけで笑ってみせるが、クラエスにはその目にどんな感情もひそんでいないように思われた。荒野のようにひからびているのだ。

 彼との付き合いは、皇帝直属軍イェニチェリに正式に入隊した当初から続いていたが、その表情かおやしぐさは、他者に対する親しみを装っているようで――万年氷に植えられた植物のように何にも根付いていない、とクラエスは思っている。彼が人間らしい感情をみせることはわずか、あの少女の前だけだ。

「そんなことはもうどうでもいい。端から、貴方が誰よりも信用できない人間であることは承知の上だったのだから。ただ、ユリアナについてだけは――貴方が裏切ることはないと思っていた」

「……ユリアナか」

 バラドは肩を竦めた。溜息をついて、目線を足もとに落とす。

「今なお、彼女は貴方のことを信じている」

「……そうだろうな」

「貴方が与えたという義足を大事にしています。誰よりも、貴方のことを信頼しているし、慕っている。それなのに、何故――」

「――俺は何も与えてはいない」

 クラエスの声をさえぎって、彼は声を張り上げた。

 風が吹きすさび、クラエスの長い髪が散った。砂埃が逆巻き、あたりの空気が黄色くよどんでゆく。

 むせるような砂塵の渦のなかで、バラドはゆっくり顔を上げたようだった。クラエスを見据え、そしてそのむこうの――実体のないなにかを睨みつける。

「そう思わせているだけだ。俺は何も与えていない」

 そのとき、何かが堰を切ったように――彼は目を細めた。

 その目に、鮮やかな痛みの色がうつろう。

「人間の記憶や思い出など信頼ならない、あてにならないんだ。俺はそれを利用しただけだ。過度のストレスに直面した幼い子どもに、いつわりを

「……いつわりを?」

 その言葉に、クラエスはいぶかしげに聞き返した。

「俺はあの子に何も与えていない。むしろ奪ったんだ! 何度も、執拗に銃で撃って。床に転がって、まりのようにちいさな体が跳ねた。血だまりのなかにいて、あの子の体は真っ赤に染まっていた。悲鳴さえ聞こえなかった。あのときはどうでもいいと思った。でもよくおぼえているんだ。――今でも夢に見るから」

 しぼり出した声はかすれ、矢継ぎ早の口調は彼らしさの欠片もなかった。――余裕がないのだ。

 バラドは一度苦しそうに胸を押さえると、赤銅色の片手をかかげた。

「――この手で奪ったんだ。それなのにあの子は、俺がすべてを与えたと信じている。滑稽じゃないか。ばかげている。あの子も……俺も……」

「……バラド?」

 目を瞠るクラエスを前に、バラドは砂除けの布をくつろげ、自嘲するようにほほ笑んで見せた。そして、いつものような冷たい顔に戻ったのだった。

 棒立ちになる青年の横を通りすぎながら、低い声で囁く。

「――エレノア・ハクスリーを信じ過ぎないことだ。あれは悪魔ドヴッジャイラに違いない。心がないんだ。……俺と同じようにな」

 クラエスはとっさに振り返り、彼の背を目で追おうとした――しかし視界に広がったのは、がらんとした朽ち果てた広場だけだった。

 忽然と、夢のように、男の姿は消えていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます