(11)味方

 桑雨サンウの隠れ家がある街区ハーラは、首都を囲む壁の周縁にあって、ごろつきや浮浪者がうろつくような治安の悪い場所だった。私は桑雨から借りた外套ミシュラハのフードを目深にかぶり、そそくさとファランドール家の屋敷を目指した。

 すこし体が熱っぽかったが、鎮痛剤が効いている間になんとしても家に帰らなければいけないだろう。心配していた義足も、バラドが修理してくれたのか――違和感なく、私の「右足」として機能している。

 つい先ほどまですぐ傍にいたはずなのに、バラドとの邂逅は白昼夢であったかのように、私は彼と会った実感を得られずにいた。その代わり、あの暗く熱っぽいまなざしだけが目に焼きついている。

 周囲から、そして彼自身から聞かされる《バラド》という人物は、私が知る後見人としての彼から遠ざかっていくばかりだ。しかしそれが偽りやまぼろしであるかと言えば、そう思えない自分がいる。――思いたくないだけかもしれない。


 ――ユリアナ。泣かないでくれ。


 それでもあの声だけは、昔と同じ、優しい響きをしていた。


 ◆


「――――」

 屋敷の玄関口に足を踏み入れるなり、私の正面で、弾かれたように立ち上がった人物がいた。――クラエスだ。

「……帰りましたか」

「た、ただいま」

 ゆらりと顔を上げた青年に、私は反射的に返事をした。桑雨サンウからもらった紙袋を胸に抱きしめながら、とっさに次の言葉を繋ごうとする。

「あの、クラエス……、」

 ――もしかして、ずっとここで待っていたのだろうか。「近づかないで」という私の言葉を受けて、彼は追ってこなかった?

 あのときは必死だった――だからあんな言葉が口を突いて出た。その瞬間のまぎれもない本心ではあったが、後悔を覚えたことも事実だった。

 朦朧とした意識のなか、彼が傷ついた表情かおをしたことが頭の片隅に引っかかっていた。

「――大事はないですか」

 私がうなずけば、クラエスはひらりと身を翻した。「ザムエルは逃げました」、そう淡々とした声を続く。

「……何も聞かないの? もっと……」

 ――叱られると思っていた。

 華奢な背にそう投げかければ、一瞬、クラエスは首だけで振り返った。淡青色の瞳が揺れている。――そのまなざしは出会ったときのような余所余所しさ、冷たさ――そして今にも溢れそうな感情に蓋をし、きつく私を睨みつけていた。

「言いたければどうぞご自由に。――もっとも、私には関係のないことかもしれませんがね」

 突き放した言い方に、思わず唇を噛みしめる。

 バラドに、このことは内密にするように言いつけられている――一方で、正直なところ私は嘘をつくことが上手ではない。だからザムエルに何をされたか、クラエスのもとを離れてからの『空白』について説明をすれば、どこからかボロが出てしまうにちがいなかった。

 もとはといえばクラエスを退室させた私自身が招いたことなのだから、これ以上の嘘を重ねるには気が引けた、というのもある。

「……そういうことですか」

 沈黙は明確な拒否となって、彼に受け止められたのだった。

 自嘲するように笑みをいたクラエスは、私から顔を背け、無言で中庭にむかって歩き出した。

 私はその場にひとりぽつねんと取り残された。よれた紙袋を胸に抱き、こうべを垂れる。――急いで彼を追って、弁解なり、謝罪なりをするべきだと思った。

 それでも私の足は動かなかった。


 

 首都に来てから、クラエスの態度はすこしずつ軟化をしていたように思った。彼が私を護る意図、目的は不透明なままだったけれども、たまに見せてくれる笑みとか、身を呈して庇ってくれる姿に、嘘や打算はない――そう心の隅で感じはじめていたのだった。

「――明朝、また起こしにきます。用があったら呼んでください」

 私が寝台に潜ったことを確認すると、クラエスは部屋の照明を落とし、淡々とした声でそう告げた。――これまでのように、部屋に待機することも彼はやめてしまうつもりのようだった。

「クラエス」

 ドアノブに手をかけた青年の背にむかって、私は思わず呼びかけていた――けれども、後に続く言葉が思いつかない。

 「おやすみ」――では彼は引き留められない。何かもうすこし会話の続く内容を、と考えて、私が必死に思考を巡らせていると、わざとらしい溜息が響いた。

「何ですか?」

「……その、包帯がずれちゃったみたいで。ひとりだと巻き直せないのよ……だから……」

 しどろもどろになりながらも、何とかそう言い訳をすると、クラエスは再度溜息をついて「そんなことですか」と苛立たしげに言い放った。

 棘のある態度にひるみそうになりながらも、「お願い」と言葉を重ねる。すると、無言で足音が奥の寝台ベッドまで近づいてくる。

 サイドテーブルの洋燈オイルランプに火をけたのを見て、私はおもむろに寝間着の上を脱いだ。恥ずかしくはあるものの、暗がりではあるし、何より自分から言い出したことだから後には引けない。

 クラエスに背中を向けると、思い切って包帯の結び目を解いた。

「――――」

 彼の眼前には、私の《焼き印》が晒されたはずで、ひそかに息を呑む音が響いた。――ふいに手が伸びて、肩口に触れる。

 その感触にびくりと肩を震わせたものの、唇を噛んで悲鳴をこらえた。

「……双頭の鷲」

 クラエスは、抑揚のない声で囁いた。

「ファランドール家の当主は、帝国人にしかなれないと聞きます。属領出身がその座を狙うには、《紋》を消すしかない。だから……」

 彼はそこで言葉を切り、「まだ腫れている。氷嚢を持ってきます」とごく事務的に続けた。そこにやさしい響きはない。

 このままでは、状況は一向に変わらないに違いなかった。

 クラエスの気配が離れようとしているのに、思わず私は振り返った。

 オイルランプのやわらかい光が照らす先に、クラエスの後ろ姿を見つけた。それが離れていくのが嫌で――気が付けば、私は彼の背中に抱きついていた。

「――待って」

 血のにじんだ包帯が、はらりと足もとに落ちる。私は彼の胸に腕を回しながら、「待って」ともう一度繰り返した。

「……ユリアナ?」

 その瞬間、これまでの態度とは打って変わり――なぜかひどく動揺したそぶりをみせたクラエスを前に、この機を逃す手はないと本能で判断する。

 背伸びをして、彼の背中に必死にしがみつきながら、私は祈るような気持ちになった。

「――ごめんなさい、クラエス」

 ひと呼吸を置いて、震える声でそう絞り出す。

「私、あなたの忠告を無視して……その上、ひどいことを言ったわ。きっと幻滅したわよね。もともと、そんなに私のことを好きでもないだろうけど――でも、私、あなたを傷つけてしまったんじゃないかって」

 ――言いたいことはたくさんあった。

 私は言葉を続けながら、懇願するように彼の背に額を擦りつけた。

「私、あなたに味方じゃないって言われて悲しかった。でも考えてみれば、あなたはずっと私のことを守ってくれていたのよね? ……そりゃ、踏まれたりとか、蹴られたりとか、散々な目にも遭わせられたけど……なにか目的があってのことなのよね? だとしたら、私はあなたの気持ちを踏みにじってしまったわ」

「……ユリアナ。いいから、離してください」

「離さないわ。私、このままじゃ嫌よ。私はずっと、自分で何も選択できない状況にいるって思っていたわ。わけのわからないことに巻き込まれて――だから、それも仕方ないって、自分から目を逸らしていたの」

 そのとき、クラエスが強引に私の手を振り払おうとする。必死にあらがいながら、私は彼の体にしがみついた。

 もはや、すがりつくと言ったほうが適切かもしれない。

「……私、ちゃんと理解したいの。自分の置かれてる状況とか――私が何をすべきなのかを。そうでなければ、きっとあなたのことも分からないわ。バラドのことだって……! だからお願いよ、クラエス。――私の味方になって。あなただけなの」

 声を張り上げて、私は彼にむかって叫んだ。――ほとんど涙声で、クラエスの耳には、ひどくみっともなく聞こえたに違いなかった。

 鼻をすすりながら、徐々に、彼の胸に回した腕の力を緩めてゆく。

 それでも、クラエスはその場から動かなかった。

 ――バラドに拒否を突きつけた瞬間、私が長い間たゆたっていた夢はめてしまった。もっと言えば――私は、彼と別の道を歩まざるを得ないことを知ってしまったのだ。

 だからこそ、私は自分の置かれた環境を、ちゃんと見つめ直さなければいけないと思い始めたのだった。

「……誰かに寄りかかられるのは、ごめんだと言ったでしょう」

「私、あなたに頼り切ろうなんて考えてないわ。味方になるって、そういうことじゃないでしょう? 私、あなたに信頼されたいし、信頼したいとも思っている。あなたに洗いざらい、いろんなことを教えてもらわなきゃいけないの。何も知らないまま、あなたに守られて、あなたが怪我をしているのを見るのは――もういやよ」

「優しいんですね。ひとでなしに育てられた割には――」

「なんの話をしているの? バラドはひとでなしじゃないわ。少なくとも、私にとっては!」

 クラエスは肩を竦めた。そしてたっぷりの沈黙を置いて――「教えると言っても、何から?」そう揶揄する声がいつもの調子を取り戻していて、私は思わず脱力していた。

「いろんなことよ」

 寝台ベッドのふちに腰かけ、脱ぎ捨てていた寝間着で胸もとを隠しながら、私はクラエスに返答した。鎮痛剤が切れかけているのか、背中に熱と痛みを感じはじめていたが――ようやく掴んだ彼との「糸」をここで切りたくはない。

「でも、まずはお互いを知るところからよ。――を見せたんだから、あなたのも見せて」

「……《紋》の話ですか?」

「ずっと気になっていたの。早く見せて」

 ずいぶん横柄だ、とクラエスは溜息をついた。そしてもうやけっぱちだとばかりに――私の眼前で、襯衣シャツを脱いだ。

 おぼろな明かりに照らされた白い背を、私は見上げた。

 隣に座るように、クラエスに頼む。いさかか抵抗をみせたものの、頑なな私の態度に折れたのか、彼は諦めて私に背を向け、寝台ベッドに腰を下ろした。

「……さわってもいい?」

「どうぞ。古いものですから、もう痛みもありませんし。――言うとおりにしないと、あなたは癇癪を起こしそうだ」

「ひどい言い草ね。……こっちは?」

 右の肩甲骨の上あたりに、悪竜ヴィシャップをかたどった焼き印がある。他人の《紋》に触れるなど、初めての経験だ――怖々と指を滑らせれば、細かい凹凸が皮膚に刻みつけられていることが分かった。

「それは皇帝直属軍イェニチェリの証ですね。入隊が決まった者はこれを。皇帝直属軍イェニチェリは《紋》をもつ属領人しか入れませんから、結果としてふたつの焼き印を体に刻むことになります」

「……じゃあ、こっちは?」

 指先を横にスライドし、私はもうひとつの――おぞましい火傷の痕に触れた。《紋》があったであろう場所は焼かれ、ケロイド状に盛り上がっている。その上に、生々しい傷痕があった。

 長剣の形をしたいびつな傷痕は、比較的新しいピンク色の皮膚が張っていた。

「それは……《紋》ですよ。クイーンズランドの」

「消されているわ。その上に傷が」

「父親がつけたんです。……剣の形をしているでしょう?」

 クラエスは長い息をついた。――苦悩をこぼすように。

「昔の話ですよ。私の父親は、皇帝直属軍イェニチェリの任期を終えたあたりから――気がおかしくなってしまってね。に似たエレノアを見るとひどく怯えるし、逆に私に対しては横暴にふるまった。これもその『横暴』のひとつ」

「どうして剣の形を?」

「私が生まれたハクスリー家は、かつて『女王の剣』だった。クイーンズランドはその名の通り、歴代女王が統治する国で……その女王に仕える騎士の家系だったんですよ。

 クイーンズランドが帝国に征服されようというとき、ハクスリー家は母国に反旗を翻し、帝国に下った。それ以来、ハクスリーに生まれついた者は皇帝直属軍イェニチェリに入る栄誉を得た。三三年前のエジンバラ戦役では、父が先代の《女王》を銃殺し……そういういろいろな苦悩が降り積もったんでしょう。私には知るよしもないけれど――ユリアナ?」

 私は彼の焼き印に伸ばした手を離し、代わりに――唇で触れた。

「ちょっと、ユリアナ。やめてください。そこは……っ」

 私よりすこし低いくらいの体温を、唇で感じた。産毛に触れるように優しく――その焼け爛れた傷痕をなぞる。ほとんど無意識に逃がさないようにと両足を伸ばし、彼の前方で交差させると、がっちりとホールドをした。ぴったりと密着して、子どもが親にしがみつくような体勢になった。

 クラエスは肩を震わせたが、私を振り払おうとはしなかった。

 胸にむかって流れる白金色の髪が、オイルランプの明かりを反射してオレンジ色に輝いていた。そのやわらかい毛髪を視界に入れたまま、私は中央の傷痕に舌を伸ばした。

「……っ」

 傷のへこみを撫でつけるように、舌で舐め上げる。クラエスは息を呑み、敷布シーツを手で掴んだ。指先が小刻みに揺れている。

 寝間着をあてがっていた手を離し、私は両手で彼の背中に触れ、なおも舌で彼の傷をくすぐった。そのたびに、視界で白い背がかすかに震える。

「……ユリアナ。いい加減っ……」

「ごめんなさい。やっぱり聞いちゃいけないことだったわね」

「それは別に……いや、せめて服を……というか……」

「昔、指を切ったときにバラドが舐めてくれたことがあったのよ。身も心も、痛くなくなるおまじないだって。……ずいぶん痛そうに、見えたから……」

 ――自分の父親に傷つけられたなんて、親しい人間であっても、話したくない事柄だっただろう。それを話させてしまったことに、罪悪感をおぼえた。

「でも、あなたのことを知れてよかっ……」

 そのときふと、視界がぐらついた。体に力が入らない――そのままぐったりと彼の背にもたれかかった私に、クラエスが慌てて振り返った。

「ユリアナ? ……すごい熱じゃないですか。こんな状態で、貴方という人はまったくもってめちゃくちゃ――」

 両腕でクラエスに支えられながらも、何とか頭をもたげる。そして腕を伸ばすと、彼の横髪に触れ、頬に指先をすべらせた。

 淡青色の瞳が、不思議そうに細められる――視界がぼやけ、そこにバラドの顔が映った。水面みなもが揺らめくようにその影は砕け散る。そしてもう一度、クラエスの瞳が鮮烈に映り込む。

「――――」

 そのとき、自分が何を口にしたのか、はっきりとは分からなかった。けれどもクラエスが一瞬目を細め、しっかりとうなずいたのを見て――安堵して、私の視界は暗転したのだった。

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