085 『伝えたかったこと』
「あっ、主さま、ここで降ろしていただけるでしょうか」
「ん、分かった。けど、こんなところでいいのか?」
霜が望んだのは、浮神神社へ続く石段を昇ったところで、鳥居を潜ってすらもいない。本当に、ここでいいのだろうか? 別にここまでくれば、仲間で抱き上げていくのも変わらないのだけれど。
「はい、主さま、ありがとうございます。ここで――いいえ、ここがいいんです、うちは」
そう言って、霜は神社ではなくその反対方向、町のほうへと視線を向けた。彼女に習って、俺もその景色へと目を向けてみる。
「んー、もしかして、うちを見たかった、ってことなのか?」
そこからは、基本的に背の高くない一軒屋が多く立ち並んでいるおかげで、俺の家を含めて、あたりの家が一望できた。霜は、彼女自身でもある家を、見たかったということなのだろうか?
「えぇ、主さまのおっしゃる通りなのです。うちは最期に、うちが建っているこの町を、こうやって見てみたかったんです。ふふっ、家であるうち自身が、その建っている場所を見てみたいなんて、おかしな願いですよね?」
「それはそうかもしれないが、自分のことを、自分の居場所を知りたいって思うのは当然だとも思うぞ。まして、霜は今まで自分で動いて出歩くことが出来なかったんだからさ」
「そうですね、はい、うちも、こんな風に望みがかなうなんて思ってもいなかったです。長く在ったというのに、まるで全然その町のことが見えてなかったんですから、お笑い種ですね」
そんなことを言いながら、感慨深そうに景色を見下ろす霜。夕暮れ時に幼い少女が自らの町を見ている姿は、なかなか絵になる光景といえよう。
けれど、俺はそこでひとつの違和感に気がついてしまう。
「あれ? なぁ、霜、どうしたんだ、お前?」
なんと言い表すべきか、霜の姿が薄れていた。ぼやけるような、ぶれるような感じに、まるで電波の悪いテレビのように、霜の姿がぶれてどことなく薄れている。
「あぁ、気付かれてしまいましたか。もう少し、ゆっくりとしていたかったんですが」
「いや、気付かれてって、大丈夫なのか、おい? 何があったんだよ?」
俺の指摘になんてことはないように霜は答えるが、その態度とは裏腹に、とても大丈夫そうには見えない。原因が分からないことがもどかしくなる。
「主さま、今日まで、本当にありがとうございました」
こちらを向いた霜が、改まったようにそう言葉を発する。
「えっ、いきなり何を?」
「うちは、主さまとこうして共に暮らせて、お話できて、とても幸せでした。最期に、こんな風に二人で町を見て回ることまでできて、もう思い残すことなんてありません」
「いや、何を言ってるんだ。そんな、これが最後なんかじゃなくて、また今度にもどこかに言ったり出来るだろ? もっと色々見て回る場所も、楽しいところもあるんだからさ。今度は、依織やレイアが帰ってきたら、みんなで街にいったりもしようぜ」
そう、今日だけで満足されたら困る。彼女を今は居ない二人に紹介するのは勿論のこと、一緒に暮らすのだから、遊びに出かけるのも当然だ。依織やレイアは一人ずつで、と言いたがるかもしれないが、それでも皆で出かける楽しさも分かってくれるだろう。
「ああ、とっても楽しそうですね、主さま。それだけに、心苦しいです。うちのために、そんなことまで考えていただいたのに、それを無駄にしてしまうなんて。こんなことなら、もっと早くお話しておくべきだったのかもしれません」
「いや、まて、一体何を……」
「うちは、主さまの住む家の化身なのです。けれど本来なら、こうして人の身の化身を生み出すほどの力はありません。ですが、空亡さまに魔力を与えていただき、この姿をとれるようになったのです」
「あぁ、そうだったな。空亡のやつが、家事をさせる為に、ってお前に人の姿を取らせたのは俺も知ってるさ。それが、何か問題になるのか?」
「いえ、問題というわけではありません。うちの力が足りない、というだけなのですから。いただいた魔力は有限で、うちにはそれを自力で賄えるほどの力は無い、というだけで」
「そんな……」
けれど、当たり前といえば当たり前なことでもある。無理やり空亡が魔力を与えて、本来力の無い霜に人の姿を与えたのだ。与えられた魔力が無くなれば、どうなるかなんて考えるまでも無い。
「うちは、幸せでした。本当に、果報者です、こんな素敵な主さまに仕えることが出来て」
「霜……」
「それに姿は出せませんが、うちはずっと、あの家として主さまと共に在ります。そんなに悲しんだりしないでください。もうお話できなくなるのは、ちょっと残念ですけど」
俺を心配させないようにか笑顔で言いながらも、その姿はより希薄になっていってしまう。もう、後ろの景色がはっきりと見えてしまうほどに。
「そういえば、一つだけ、主さまにお伝えしたいことがありました」
「なんだ、何でも言ってくれ」
その姿から察するに、彼女と話せるのはもう僅か。その言葉を、しっかり刻みつけておこう。そして、叶えられる限りのことを、やってあげたい。
「そんな気取らなくても大丈夫なのです、ただ伝えておきたかった、ということですから」
そう苦笑すると、霜は俺の瞳をまっすぐに見て、口を開く。
「主さま、いいえ、彰さま、――お慕いしております」
愛らしい霜の顔が俺の眼前に迫る。
そして、唇に何かが触れる感触があったかと思うと、その姿が掻き消えていく。
最期に見えた霜の顔は、悪戯を成功させたように満足そうで嬉しげな微笑だった。
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