鍵と扉 2

 サンジェルマンはゆっくりと立ち上がって、『海龍』を開いた。

「生み出される芸術は素晴らしい。けれども、どんなに素晴らしい芸術であっても必ず扉が開くとは限らない。最果てに共鳴したものだけだ。ならば、既に扉を開いたものとの交流こそ、力を注ぎ、扉を開くことができる方法を継承していくべきだろう。魔力以外に、確実に扉を開く方法を見つけ出したものはいまだかつていないのだ。豊かで稀有な発見のひとつとなるのだぞ」


 サンジェルマンが人間たちに向けてどれほどのサロンを開いていたのか知れないが、少なくとも、『海龍』を作り上げた二人の芸術家たちは、そこに出入りしていた。そして最果てに暮らすようになってからも、少なくともレオさんは、サロン・ダンフェールに顔を出していた。


 芸術家とパトロンの関係が切っても切り離せぬ枷のように、コンフェッティは感じた。

「芸術だって、腹が膨れなきゃ生まれるもんも生まれないってことも、あるだろ。あんたの意図する通りに、物事が動いていくわけは、そこにあるんだよな」

 コンフェッティはニヤリと笑みを浮かべる。

「あんたの協力者は、牧神パンか? お祭り騒ぎの好きなヤツの飛び付きそうな話だ。考えてみれば、どっかではやたらにパンの絵を見た。それに……ヤツの親父どのは確か、ヘルメスだよな。交流省のトップだ。どうやって取り入ったか知れないが、ヘルメスが便宜を図っているんだろ? 扉の修復指示は、ヘルメスから直々に出てるらしいぜ。トップ自らからが指示を出すなんて前代未聞だ」


 サンジェルマンは片方の眉を吊り上げて、『海龍』のページを神経質につまみあげている。

「ほう? 仕事では『使えない』と評判だが、それなりに頭の使い方は知っているのだな」

「なんでもかんでも信じるどっかの感激屋ほど、俺は幸せに生きてきてない。世知辛い環境ってやつにも感謝しなくちゃな。おかげで少なくとも、飴玉しか食わないヤツは信用しない程度には見る目は養われたらしいぜ」


「なかなかの言われようだな。だが、相手はよく見てから、ものを言ったほうが賢明だ。君の魔術の腕前は、ペンライトひとつだろう? こちらには、君の姉君が仕込んだ魔術師がついているんだ」

「今は棒っきれだ」

 コンフェッティは、サンジェルマンの手に握られた鍵を見つめる。

 あれほどサンジェルマンに心酔していたミディは、自らの行く末を知っていたのだろうか。ミニュイのように信じた末のこの結末なら、哀しすぎる。コンフェッティはそっと目を閉じた。

「扉が開かないなら、もう鍵に役割はないだろう。もとに戻せよ」


 サンジェルマンが口元を歪める。

「いいかい、コンフェッティ君。後学のために教えておいてやろう。優秀な人材ほど、リスクをしっかりと考えておくものだよ。彼女はその意味でも大変優秀でね。もしもの場合の対処を準備しているのだよ。たとえばこの石」

 サンジェルマンは、宙に浮いていた緑色の石を掴んだ。『海龍』を載せていた、あの石だ。

「この中には詩が封じられている。詩というのは、良くも悪くも、大きな力を秘めるものだと、彼女の魔法で知ったよ」


 サンジェルマンは、思い切り緑の石をコンフェッティに向かって投じた。

「っっぶねぇ」

 コンフェッティはすばやく身を翻した。石はコンフェッティの髪先をかすめて、列柱のひとつにぶつかり、割れた。


 その、粉々になった石の欠片から、黒い影がそれぞれゆらめいてたちのぼる。夜の闇に墨を流して凝縮させたようなその黒さは、周囲の光を吸い込んでむくむくと。凝り固まった。


 サンジェルマンは、手にした鍵を大きく振りかざすと、黒い影に向かってどこの国の言葉ともわからぬことを言い放つ。その言葉に反応して、いくつもの影がまとまり、ひとつになり、やがて見上げるばかりの大きな影となった。

 コンフェッティの前に立ちはだかった黒い塊には、赤いアーモンド形の光が開眼し、コンフェッティをじっと見つめた。なんの感情も浮かばない目だ。

 コンフェッティは背筋に冷たいものが這い上がるのを感じた。


 風を切る音に、咄嗟にコンフェッティは身をかわそうとしたが、左腕に鈍い痛みが走る。トレンチコートの袖は破け、シャツまで破けて、腕に赤い線がくっきりと浮かんでいた。

 コンフェッティの背筋を何かがぞわりと這い上がった。まともにぶつかっていたら、ひとたまりもないだろう。

「生肉のタルタルステーキは、お好みかな。東洋のサシミの方がいいかね」

「おっさん、いい趣味してやがる」

「お誉めに与り光栄だ」


 闇の塊は、サンジェルマンに同調するように、地響きのような、獣のうめき声のような不気味な音を響かせた。

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