魔法のジャム 3
ジャム屋はキッチンの中央に立ち、小さなミルクパンを両手に持ってみせた。
「右手の方と左手の方、どちらがお好みでしたか?」
「大きくは違わなかったけど、俺は、左手の方が好きだったかな」
ジャム屋はまたにっこりと笑った。
「右手の方はルルドの泉の水で、そしてこちらはパリの湧き水で作りました」
「パリ? あんな都会に湧き水なんてあるのか?」
「ヴェルレーヌ広場に」
「ヴェルレーヌ?」
「詩人ポール・ヴェルレーヌを記念した広場です、そこに取水場があるんですよ。いろいろなジャムに、いろいろな産地の水を使いますが、ここミイ・ラ・フォレのミントには、ヴェルレーヌ広場の水を合わせたものが私もおいしく感じます。詩人の魂が通じているんじゃないかと、思ってしまうほどです。ポール・ヴェルレーヌとジャン・コクトーは、友人でもありましたから」
ジャム屋は車の奥から、大きな籠に山盛りにされたミントを取り出した。
手際よく、ミントを洗い、茎から葉を外していく。
「水にまでこだわって、作ってたんだな」
「……わたしの作るジャムは、わたしが考え出したものじゃない。全部、旅先の土地の人たちから教えていただいたものです。いろいろな街のお母さんたち、おばあちゃんたちが、ずっと作って来たもの。愛情の塊だなって、思うんです。その大切な愛情の作り方を教えていただいたのですから、わたしにできる一番最良の方法で、届けたいなって」
ミントの葉を一番大きな銅の鍋に入れ、冷蔵庫から取り出したペットボトルの水をどぼどぼと注いだ。
「ちょっと、よろしいですか」
コンフェッティの顔のすぐそばに手と顔が伸びてきた。
間近でみると、ジャム屋は、一層うつくしかった。透明感のある色白な肌に、長い睫毛が、深い青の瞳にかかっている。コンフェッティは鼓動が早くなるのを感じ、悟られまいと視線を反らした。
ジャム屋の白くてしなやかな指先が、コンフェッティの顔の方へ近づき、コンフェッティの心臓は破れそうなほど激しく打ち付けはじめる。
指はさらに近づき、コンフェッティは、男としてここでベスの名を呼び、自らが主導権を握るべきかと煩悶していると。
ジャム屋の指は、コンフェッティの耳元――のそばにあった、なにかのボタンを押し、元のように戻っていった。
ポロポロとこぼれおちるようなピアノの旋律が響きだした。音に乗せて、コンフェッティのなにかもこぼれていくようだった。
「うつくしい音楽を、ジャムも、愛するんですよ。それに」
ジャム屋は、車内の電気も消した。
「月の光も」
窓からうっすら、月が見える。月の光は、銅の鍋にほのかに落ちた。
白い湯気が立ちのぼっては消え、また立ちのぼる。ピアノの音と鍋の呟きが車内に静かに響いた。
「魔法の力は、いくつもの繊細な力が作用して、化学反応みたいに、あらわれるのです」
「この音楽、聴いたことがあるな」
「ええ、うつくしい曲です。『月の光』というんですよ。この曲はもともと、ヴェルレーヌの詩をイメージして作られました。クロード・ドビュッシーという作曲家の曲です。それに、ガブリエル・フォーレも同じ詩から歌曲を作りました。本当に、うつくしい」
ジャム屋は、目を閉じて、ピアノの旋律に合わせて鼻歌を歌った。
鍋の中の湯は、月光を溶かし込んだように、淡い黄色に色づいた。
そのままコンフェッティたちは、水色のワゴンで一夜を明かした。
夜中までかかってジャムをつくりあげると、ジャム屋は目をこすり始め、もう運転は無理だと言って早々に眠ってしまったのだ。
といっても、コンフェッティ氏の目の下は、立派なクマで真っ黒になっていた。
安心しきって長い睫毛を伏せて眠るジャム屋の寝顔が、すぐ隣にあるというだけで、動悸が激しくなった。そのたびによからぬ考えを頭を振って打消し、目を瞑るのだが、まぶたの裏に、あの、近づいてくるジャム屋の顔が浮かんで、やはり眠れなかった。
朝食にと焼いてくれたパンケーキの味も、きっと、これ以上ないくらいにおいしいに違いないのに、味がよくわからなかった。
ジャム屋の言い方をすれば、うつくしい朝食だった。
ふんわりときつね色に焼きあげられたパンケーキ。
淡雪のように、じんわり溶けていく発酵バター。
たっぷりまわしかけられた琥珀色のメープルシロップ。
そして金色に輝く、できたてのミントジャム。
淹れたてのカフェオレをすすりながら、コンフェッティは、ちっとも腹が空かないことに自分でも驚いていた。パンケーキは素晴らしく美味しい。ミニュイが勢いづいておかわりを繰り返していたのも、よほどうまかったのだろうと思う。
でもそれ以上に――パンケーキの向こうの笑顔の方が、ずっとコンフェッティの胸を満たした。
「ベスのジャム、最初に食べたのも朝食だった」
「ワゴン車の販売?」ジャム屋・ベスは、自分のパンケーキにシロップをとろりとまわしかけながら、上目遣いにコンフェッティを覗き込む。
「いや、カフェの朝食で」
「ああ、では、あの14区の」
「うまくて、2瓶カラにして、白眼視された」
ジャム屋はくすくすと笑いながら、光栄です、といった。
「それから、マントンの」
「もしかして、『終点ホテル』?」
「そう」
「まるで追っかけですね、わたしの」
「期せずして」
「ご縁、というべきでしょうか。世の中、すべからく、偶然などありませんから」
「なら、俺たちも、出逢うべくして、出逢ったと?」
ジャム屋がコンフェッティを見つめる。時間が止まる。ほんの一瞬だったのだろうが、コンフェッティにはひどく長い時間、見つめあっていたように思えた。
「ええ。きっと」
ジャム屋はやわらかく微笑みながら、ゆっくりと頷いた。
コンフェッティは、体全体が心臓になってしまったんじゃないかというくらい、激しく打ち付ける鼓動に、なにも言葉を発することができなかった。
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