モン・サン・ミッシェル
島の入り口を入ってすぐ目の前に、人気だというオムレツ屋は、あった。
目印らしい大きなフライパンを持つ婦人の飾り看板が、赤い廂と窓枠にうっすらと影を落としていた。
いつもなら真っ先に飛び込むはずが、コンフェッティは横目で位置をしっかりと確認したのち、至極冷静に、その店の前を通り過ぎた。
先ほどの水しぶきが頭の中をちらつき、胃のあたりがきゅうきゅうと締め上げられるようで、今は食指が動かなかった。
あの潮目を操ったのは、白猫の仕業だろうか。
人間たちに影響の及ぶ潮の満ち引きまで、迷惑を顧みず行う強引さは、コンフェッティの知る限り、白猫以外に思いつかなかった。
しかし、妙なのは、アニスのことだ。
白猫を抱いた絵姿を描かれるほど親密なのだ。姉の雇用主はサンジェルマンだろうとコンフェッティはあたりを付けていた。
だとすれば、アニスにも危険が及ぶかもしれない手段を、取るだろうか? それとも、アニスが回避することまで読んでの行動なのか?
それとも――、窮地を救わせておいて懐柔しようという、作戦なのか。
コンフェッティは、横目でちらりと姉の姿を見た。
当の本人は、4時間以上をぶっ続けで運転し続け、あんなカーアクションまで演じて見せたというのに、疲れたそぶりなどひとつもない。近所を散歩でもしているかのような軽やかな足取りで、中世の風情が残る街並みを見渡している。
かつての島の入り口にあたる跳ね橋の、石造りのアーチを潜り抜けると、アニスはからかうように言った。
「どうしたの、リュドヴィック。一歩ごとに年老いていくみたい。なあに、その眉間の皺」
「いや……あの突然の満潮がな」ぼやかして返答し、アニスの顔色を窺った。
「ああ、さっきの? これだけ生きてれば、脛に傷の1つや2つ、誰にだってあるでしょう? いちいち気にしていたら身がもたないわ。いいじゃないの、批判も人気のうちよ」
笑い飛ばして、軽やかな足取りで進む姉の姿を、コンフェッティは複雑な気持ちで見つめた。
アニスは土産物屋の軒先に足をとめ、観光地図を手に取ると、それを示した。
「あなたたち、本を探すとか言っていたわね? 書店は奥の城壁の上みたいよ。私は自分の仕事をするわ。島の入り口に老舗のオムレツ屋があったでしょう、ホテルも経営しているの。宿を手配しておくわ。19時に店で待ち合わせましょう」
是非など問うこともなく颯爽と歩きだすアニスを見送った直後、ミニュイは、コンフェッティの姿がなくなったのに気づいた。
モン・サン・ミッシェルは、古い街特有の煩雑さを孕み、店と店の間に、城壁に出るための細い階段が連なる。死角はいくらでもあった。
さきほどの満ち潮の一件は、ミニュイの警戒を高めた。たとえばいつ路地から白猫が飛び出してきてもおかしくない。その時にはきっと、コンフェッティは使い物になるまい。一刻も早く仕事を終えて、備えておきたかった。
ミニュイは周囲を見回しながら、大きく吠えた。
声に気づいたのか、ひょいと土産物屋から顔を出したコンフェッティは、名物の赤い箱のビスケットを手にしていた。ひらひらと手を振るコンフェッティの姿に、ミニュイは苛立ちをつのらせたありとあらゆる試食に手を出す相棒の姿に、ミニュイは全身をいきり立たせて、大きく吠えた。
「そう吠えるなよ」
城壁へ続く細い階段にミニュイを引きずり込むと、コンフェッティは顔の前に一本指を立てる。声のトーンこそ小さいものの、ミニュイは険のある声で苦情を申し立てた。
「試食や土産物の前に、仕事をすまそう、必要な情報を集めようという考えは、働きませんか?」
「そっちは時間がかかるだろ? こっちはすぐ済む。効率的に動いたまでだ」
ミニュイはもはや怒る気力も失った。この男に何を言っても無駄だと、内なる声が告げていた。きっと彼の内なる辞書は、反省という二文字が抜け落ちている不良品なのだろう。ミニュイは大きくため息をついた。
「しかし、驚きました。あなたのお姉さんが、あのアニス・コンフェッティだったとは」
「知ってるのか?」
「伝説ですよ! 国立魔法学院始まって以来の秀才だと……。行方をくらましたことさえも、彼女の華々しい経歴を飾るアクセサリーのひとつのようです。同じコンフェッティ姓に、ゆかりはあるのだろうと思っていましたが、まさか血を分けた姉弟だったとは……」
ミニュイの視線ににじんだ色をコンフェッティは目ざとく捉えた。何度も見て来た色だ。両親、親類、教師たち、時には鏡の中にまで。ミニュイが飲み込んだ一言を、コンフェッティはあえて引き取った。
「似ても似つかないと言いたいんだろ。俺もそう思う」
弟の身からすると、偉大すぎる姉だった。信じられぬほど強い魔力も、天賦の才能も、容赦のなさも。
あれだけ、才能も名声もほしいままにしていた姉がなぜ姿をくらましてしまったのか、コンフェッティだけでなく、両親も、まったくわからなかった。姉の不在は家族の会話を奪っていった。
まだ幼かったコンフェッティに思いつくのは、姉の代わりに自分が精一杯の努力を重ねることくらいだった。
寝る間も惜しんで実力を磨き、国立魔法学院に入学して、すぐについた仇名は『コンフェッティの名折れ』。何をやっても、うまくいかない。
仕方ないのだ、俺は魔力の弱い一般魔族なのだからと必死に言い訳しても、血を分けた姉の優秀さがそれを許さなかった。必死の努力を重ねても、遊びほうけている連中の方が難なくずっと高い点数が出る試験。がんばっても、がんばっても、埋まらない、魔力の差。
両親の心にぽっかり空いた穴は、自分では埋めることができない。いつまでも姉の好物ばかりが並ぶ食卓は、能力の及ばないコンフェッティを無言で責め立てているようにも感じた。
――その頃からだ。
何を食べても、美味しい、と感じなくなったのは。
きれいで美味しく完成された味は、無味乾燥なものに思えた。
だからこそ、人間界に降り立って知った自由闊達な料理の数々は、コンフェッティの心をとらえてやまない。稀に出会う、料理とは呼べないような不味い品も、その裏側にある作り手の試行錯誤を思うと、不味さもひっくるめて、味わい深かった。
「おい、飯にしようぜ」
コンフェッティは、ミニュイの返答を待つまでもなく、目の前の店にずかずかと入っていった。
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