神々の思惑
「我が主は、あなた様がもとの場所に戻られることを望んでおられます」
「ひ、人違いではないですか。わたしは、た、ただのジャム職人です」
ベスは目を反らした。あまりのうろたえぶりは、アニスの言を逆に肯定しているようなものだ。服にあちこち手をいれて、いくつかの小瓶を取り出してみせる。
アニスはジャムには目もくれず、跪いたまま、先程までの凛とした声とは違う、柔らかな声で語りかける。
「……今は、そうなのでしょう。慎重にお探しして参りました。私の存在を知れば、あなた様は逃げてしまわれるでしょうから、私自身、身を隠して」
「家族にすら知らせずにな」コンフェッティが合いの手を入れる。
「情報戦の基本はまずは身内から、というでしょう」
差し出されたまま、所在をなくしているジャムの瓶に、コンフェッティが手を差し伸べた。どれも中身は同じらしく、薄茶色のクリームがとろりと揺れる。塩キャラメルだ、と、コンフェッティは胸をときめかせる。ベスに振られたことで、ジャムに拒否反応を示しはしないかと、自分でも気にしていたのだが、コンフェッティの懐は存外広かったらしい。
「ご一緒に、我が主のもとにお戻りください」
ベスは視線を泳がせる。いたたまれなくなったコンフェッティは、二人の間に割って入り、アニスを見下ろした。
「おい、無理強いするなよ。アニスはいつも強引すぎるんだ。ベスは嫌がってるじゃないか」
アニスは「悪魔の目覚め」の微笑みを、コンフェッティに向ける。
「擁護して今さら株をあげようったって無理な話よ。さっき盛大に振られたでしょう? 諦めなさい、リュドヴィック。あなたの手の届く方ではないの」
ベスはしゃがみ込むと、両手でアニスの手をとって、ともに立ち上がらせた。
「あなたの……、アニスさんの、主というのは、ディディですね?」
「誰だって?」コンフェッティが聞き返すと、アニスが答えた。
「ディオニュソス様のことよ」
「ディオニュソス?!」
金属音とともに、首もとに冷たいものが当てられる。いつの間にそこにいたのか、ミカエルが耳元で「様、と言え」と低く呟いた。
コンフェッティは、身を固くして、アニスとベスとを交互に見た。
「ディオニュソスが、なぜ、ベスを探してるんだ……? ジャムが欲しいなら、アニスが買えばいいだけの話だろう?」
再び低い声が「様」と呟くとともに喉元にチクリと冷たいものが当たる。「いっそ切ってしまえ」とサンジェルマンのヤジが飛ぶ。コンフェッティは舌打ちして、指先でミカエルの剣を払いのけた。
「おい……ちょっと待てよ、どこかで聞いた話だ。ディオニュソスが人捜しで……それは確か恋人だと……? まさか……?」コンフェッティは蒼白な顔でベスを見る。ベスはぶんぶんと大きく首を左右に振る。
アニスは冷たい微笑みを崩さずに、訂正する。
「そういう噂があるみたいね。恋人の噂は事実無根よ。ただ、人を探しているのは本当。この方は――」
アニスが告げたあまりの衝撃に、コンフェッティの脳は思考を完全に停止した。
「……もう一度、言ってくれないか」
「だから、この方は、古き神々の一柱。本来ならば雲の峰に住まうお方なの」
ベスは拳を握りしめている。
「もう違いますったら! 過去形なんです! 甥っ子にすべて任せて、わたしは第二の暮らしを送ると決めたのです」
アニスは幼い子に言い聞かせるように、ゆっくりとコンフェッティに説明した。
「ディオニュソス様が、12柱の一柱になりたいとおっしゃったのを耳にして、その座を譲られ、この方は人間界に雲隠れされたの」
コンフェッティは目眩を覚えた。
「ということは、つまり君の本当の名は……ヘスティア。
コンフェッティは、その場にがっくりと膝を折った。
「応援するけど、おすすめしないと言ったのはそのためよ。言い添えるならば、ゼウス様に次ぐ権力を持つ海の神ポセイドン様や、ゼウス様の息子である芸術と光明の神アポロン様の求愛も、すべて袖になさっているの。彼ら以上の魅力があなたにあるとでも?」
ベスが両手を振り回して、必死に否定する。
「ち、違うんです! だって、あのひとたちは女性と見たら口説かなくちゃ失礼だと思い込んでいるだけで。それに、わたし、全ての人間の家のキッチンと全ての神殿に入ることができる特権と引き換えに、一生独身を貫くと約束したので……」
ベスは、コンフェッティに向かって肩をすくめる。
「……だから……、リュドヴィックの気持ちは嬉しいけど、応えることはできないの……ごめんなさい」
「ヘスティア様。我が主は、あなた様に雲の峰にお戻りいただきたいと願っています。お心遣いには深い感謝を捧げていますが、あなた様の居場所を奪ったのではないかと、深く嘆き悲しんでいます」
アニスは、鍵を両手で捧げ持ち、ベスに差し出した。
「お使いください」
「これは?」
「日月の鍵です。サンジェルマン伯爵の整えた扉、多少の不備はあれど、あなた様ならば、新たな扉をつつがなく開くことができるでしょう」
サンジェルマンが恭しく、『海龍』を持ち寄る。いかに苦労して錬金術の研究をすすめ、この扉を見出したかを、そしてそれがコンフェッティのために台無しになった旨を、懇切丁寧に語って聞かせる。ベスは、熱心に耳を傾けて、本を手に取った。
ベスは、『海龍』を膝の上に乗せると、鍵を両手で持ち、垂直に構えた。そして、ミディとミニュイの頭部をそっと両手で包み込む。
「……アニスさんは、ディディのもとへ、扉を開けと言いたいのですね」
唇をきゅっと噛みしめ、ベスは、一人一人の顔を順に見つめる。
「扉は、数々のジャムのレシピと同じく、人間たちの想像力が生み出すもの。わたしは、その素晴らしさに、誰よりも魅入られ、焦がれてきた一人です。だからこそ、扉は、彼らの手に委ねておきたい。この輝かしい芸術を、操るのではなくて、見守る側に立っていたいと、思っています……いえ。思って、いました……」
それから、コンフェッティをじっと見据え、ふっと緊張の糸をゆるめた。
その瞳の中には、何かを決意したような、強い光が映っていた。
コンフェッティは、別れを予感した。
ベスが鍵を『海龍』の扉に差し入れ、かちりと音がするまで、鍵を回す。
表紙を覆っていた鈍い虹色は、みるまに明るさを取り戻して、大きく広がり出す。色合いを変幻させ、渦を巻きながら、虹色の渦は空間を飲み込み、その先に光の集まる扉が現れた。
うすく開いた扉にベスが手をかける。扉は、景色のすべてを虹色の絵の具を流したように塗り替えていった。
虹色の洪水が収まると、金色の実をたわわに実らせた果樹の連なる場所に、彼らは立っていた――。
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