扉と描き手
一体彼女のどこに惹かれたのか、とコンフェッティが疑問を投げかけようとした刹那、キリン男が大声を張り上げた。
「おおアンジュ、……やはり君は、素晴らしい……!」
語尾が裏返ったその声に、キリン男の興奮が伝わってくる。感嘆にアンジェリーナとコンフェッティが駆け寄ると、キリン男の指差す先に、黒い線が見えた。
アンジェリーナの目が鋭く光った。
「……やっぱり……!」
アンジェリーナは声をうわずらせて、コンフェッティに解説する。
「これが本当に画家の作品なら貴重だよ。プライベートなものだとしてもね。エコール・ド・パリの時代に、パリを2回訪れ、帰国することなく亡くなった日本人画家は二人いるんだ。風景画を得意としたユウゾウ・サエキ、そして人物画を得意としたツグハル・フジタ。この黒い線が何を描きだすのかによって、どちらの画家の作品か見当がつくはずだ」
皆が固唾を飲んで見守る中、キリン男は淡々と手を動かしていく。細いナイフのようなもので、薄く削りとったり、細い筆で撫でたりと、繊細な仕草で、上塗り部分を取り除いていく。
コンフェッティは、削りとられ、足元に落ちていく雪のような白い粉が、汚れた床を覆い小さな山になっていくのを見つめる。
黒い線は、少しずつ伸びていく。まっすぐに引かれた力強い線。これがただのいたずら書きなどではないことは、その線に宿る意思が、強く表明している。
「アンジュ、君の考え通り、フレスコだね」
「フレスコ? なんだそれは?」
コンフェッティは、トレンチコートを荷物の上に置き、シャツの腕を捲りあげる。キリン男は、コンフェッティにも甘い微笑みを惜しみ無く投げかけながら、説明した。
「壁画の描き方のひとつだよ。フレスコにもいろいろあるけど、これはブォン・フレスコ、真のフレスコと言われる技法なんだ。漆喰を塗り、乾く前に水と石灰を混ぜた顔料で描きあげている。漆喰壁の上にさらに漆喰を塗って描いて、どんな理由かは知らないけど、また漆喰を塗り重ねている。ラザニアみたいに層になっているよ」
アンジェリーナはキリン男に顔を近づける。互いが横を向いたら唇が触れてしまいそうな距離だ。コンフェッティは、その濃厚な空気中に自分が身を置いていていいのかと勝手に戸惑いながら、二人の会話に耳を傾ける。
「ここの装飾のために描かれたものではなさそうだね」
「そうだね僕のアンジュ。とくにこの線、描きながら、迷っているみたいにも見える。彩色を途中でやめている箇所もある、ほら、この、門みたいなところ――」
キリン男の細くも力強い指先が、黒い線で囲まれた矩形を示す。確かに門のようにも見えなくもない。
「――サエキ?」
アンジェリーナの吐息と共にかすかな呟きがこぼれ落ちた。
コンフェッティは、その門から目を離せなくなっていた。アンジェリーナたちには見えていないのだろうか、門の絵は時折、鈍く光っているかのように見える。
「サエキは、パリの街角をよく題材に描いていたんだ。これが門だとしたら、パリの街角の風景や建物が出てくるかもしれない」
アンジェリーナは食い入るようにキリン男の手が、描画を取り戻していくのを見守った。
矩形の上辺がそのまま延びたように、両側にまた線が表れる。
「画家生活は短かったけど、残した作品は、生命がほとばしるような、力強いものが多い。素晴らしい画家の一人だと、アタシは思うよ」
やがて線の片方は緩やかに隆起し、もう片方は沈下していく。
コンフェッティは、ある種の確信を持って、その先の線が結ぶ像を見つめる。その完成した姿を、彼は観たことがあった。
「おい、俺はよく知らないが、フランス人に、レオという名の、画家がいないか。日本となにか関わりのある画家が」
アンジェリーナが、ぎろりと刺すように、コンフェッティを見た。そしてゆっくりと、笑みを強めながら、言葉を紡ぐ。
「……アタシがさっき話したもう一人の画家、ツグハル・フジタはね。フランスに帰化して、レオナール・フジタと名乗ったんだ」
アンジェリーナの言葉が終わると、目の前には、一頭の駿馬がその姿を、輝かせていた。
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