満月まであと少し

 日が西に傾いていく。

 まるで燃えるように照らされたモンパルナスの街並み。

 そのかりそめの炎を背負うようにして、コンフェッティは、再びアトリエを目指していた。手には、使いこまれたスーツケース。いつもと違い、ぴっしりと前のボタンをしめたトレンチコート。2週間ほど前、この街に降り立った時と同じ出で立ちだった。

 ただひとつ、相棒がポケットの中に鎮まっていることを除いては。


 相棒ならばきっと、望みが薄いとわかっていても、生真面目に最後まで業務に立ち向かうに違いない。仕事する上で正しいのもきっとそちらだ。

 ――だが、俺は俺だ。と、コンフェッティは開き直る。


 アトリエのあるアパルトマンの狭い階段を、身を屈めて登る。

 あの壁に一目別れを告げて、最果てに戻るつもりだった。

 謹慎だろうが、クビになろうが、どのみち最果てに引き戻されるのだ。ならば自ら先に、戻っていて、なんの問題があるだろう。

 業務不履行が即クビに繋がるのかどうかも疑わしいが、相手はあの気の短そうな石頭だ(頭部もないが)。ニケへの報告義務の怠慢もねちねち数え上げられるかもしれない。

 もっとも、大人しく沙汰を待つ、などと殊勝な心持ちはひとつもない。それまではのらくらと逃げ回る。コンフェッティはそう決めていた。


 ポケットの中のミニュイは心なしか、さきほどよりも熱くなっているような気もしたが、それだけ強く握りしめていたということかもしれない。


 コンフェッティが顔をあげると、アトリエの入口から、一筋の光が床に伸びていた。

 隙間から中を覗きこんだ目に飛び込んできたのは、鮮やかな黄色。

 黄色いワンピースの後ろ姿だ。そこからのびるカフェオレ色の首すじは、昨日怒って立ち去ったはずの、アンジェリーナに違いなかった。


 コンフェッティが足を踏み入れると、アンジェリーナが気づいて振り向いた。

「……遅かったね」

「来てるとは思わなかった」

 鮮やかな黄色のワンピースが、目にちかちかとまぶしい。鮮やかな色はコンフェッティを憂鬱にさせた。

 満月を連想させる。そしてその満月は、まもなく空に姿を現すだろう。アンジェリーナが腕を組んで、軽く睨む。その姿をもう少しも怖いとは感じないことに、コンフェッティは気づいた。


 コンフェッティの目はアンジェリーナの奥にもうひとり、半裸の人影をとらえた。上半身裸の背中、骨格からして男だろう。短く刈り上げられた金髪に、ギリシア彫刻然とした健康的な肉体美が、脚立に腰をかけて、壁に向かっている。

 その視線の先を確認して、アンジェリーナはニヤリと口許を歪めた。


「言っとくが、あんたのためじゃない。万が一にも、埋もれているかもしれない、芸術のためだ。あんたに任せてたら、破壊されかねない。先に手を打っただけだ」

「一日じゃ無理だと」

「まあ、普通なら、ね」 アンジェリーナは、腕の動きに合わせて波打つ肩甲骨に目をやる。

「あれは、アタシの知る限り、最高の腕を持つ修復家の卵だ。作品の有無くらいの判断なら、任せておける」

 男が振り向く。鍛え抜かれた肉体とは裏腹に、甘い雰囲気のマスクが印象的だ。キリンを思わせる大きく愛らしいたれ目と、薄い唇。キリン男は、コンフェッティに軽くウインクをして、また壁に向き合う。


「壁画は、『剥がし』の技術がとくに難しいんだ。一瞬でも注意を欠いたら作品そのものを壊してしまう恐れもある。作品を痛めないように上塗り部分だけを引き剥がすのには細心の注意が必要だ。その分、神経も使う。こんな短時間じゃ、どんなに経験を積んだ修復士であっても、やりたがらないだろうよ」

「僕も気は進まないよ」 キリン男が答える。「でも、アンジェリーナの頼み事なら、断れない」

 そうして、キリン男は、アンジェリーナにキスを投げる。

「……距離を、置いていたんだが」

 アンジェリーナは眉根に皺を寄せたが、柔和な表情からは、あの、鬼瓦のような迫力は感じられない。コンフェッティは二人を交互に見比べた。

 二人の目と目の間には、何か濃い空気が漂っているように思える。

「まさか」

 つまりは、この優男が、いつぞや聞かされた「命知らず」、つまりは彼女の恋人だったらしい。

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