番外編 雛まつり姫まつり 完

 日が、傾きかけてきた。


 つい先日まで、冬の弱い陽射しが瞬く間に地平線に落ちていたことを思うと、上巳じょうしの節供を迎えた今は、陽射しはほのかに暖かみを増し、心なしか日も伸びているように思われた。


 西日を浴びて光る穏やかな水面の庭の池には、紙の人形ひとがたを乗せた笹舟がゆらゆらと揺れ、緋毛氈ひもうせんを敷いた庭の一角には、雛まつりの祝膳いわいぜんが並べられていた。


 錦糸卵と薄緑のさやえんどうが、春の若草の野辺を思わせる雛ちらし寿司には、桜の花の形に抜いた紅生姜が咲いている。

 お吸い物は、雛まつりとくればはまぐりだ。

 おつくりは小鯛の昆布じめに春蘭しゅんらん防風ぼうふうがあしらわれたもので、煮付けは姫栄螺ひめさざえと小芋、若竹の炊き合わせが春の里山の風情を添えている。

 それに、菜花のおひたし、飯蛸とわけぎのぬたが並んでいる。

 焼き物はここは譲れぬとばかりに、うなぎの木の芽炊きだった。


 外での宴ということで、割れ物の陶磁器を避けて、いずれも塗りの高坏、盆、椀に、木の芽などの緑をあしらって彩りよく盛られている。


 御神酒は、白酒と、桃の花びらを浮かべた清酒の桃花酒。

 お酒が飲めない人用には、茉莉花茶と富士山の湧水ミネラルウォーターが用意された。


 この祝膳は、美美の幼なじみの清川工の家のうなぎ屋に頼んだ仕出し膳だった。


「うなぎだけじゃなくて、いずれ和食も出せるようにしたいと思ってる」


 と、頼もしい言葉とともに、工が引き受けてくれたのだ。

 


 雛菓子は、定番の菱餅、雛あられ、丸い蓬餅の真ん中をくぼませて小豆餡をのせた上方風の引千切ひきちぎり、小ぶりな州浜すはまの花見団子が、それぞれ台付の塗り盆に盛られ、禊ぎの浜遊びを模しての巻貝、二枚貝、宝貝と、とりどり貝尽くしのお干菓子が、千代紙箪笥からのぞいている。


 さらに、深川が腕を振るったという流し込み羊羹には、黒煉くろねりの羊羹に桃の花が舞っていた。

 紋切り細工は、艾人も一目置く深川得意の紙切りわざだった。


 流し込み羊羹は、枠に羊羹の生地を流し込み作る。

 その羊羹の表面に文様を描く場合は、白煉しろねり羊羹に卵白を泡立てたものを加えたものを、渋柿を染み込ませた渋紙で文様を切り抜いた型紙を当てたところに流し入れて固めるのだ。

 今回の桃花模様では、自然素材にこだわって、和名火焔菜かえんさいのビーツの粉で色を出したのだそうだ。



 準備が整ったところで、花桃姉妹の姉君が到着した。


「お待たせいたしました。遅くなりまして申しわけございません。私は、碧桃花へきとうかの姉で、桃源郷で花守をしながら修養しております道士、白李花(しらりか)と申します」


 碧桃花の姉の白李花は、すらりと背が高く、艶やかな黒髪は結わずに背に流し、碧桃花と同じようなワンピースを重ね着したような、からだの線の出ないいで立ちをしていた。

 ワンピースは裾に向かって藤色のグラデーションで、胸元には大きなペンダントを提げていた。

 ペンダントトップはドーナツ型の翡翠で、束ねた絹糸の房飾りが下に結び付けられて、白李花は、同じ絹糸を四つ編みにした紐で首から提げている。

 ドーナツ型の翡翠には、中心の穴を取り囲むように旅の安穏を願う呪文が図案化されて彫られており、その呪文の外側には、五匹の赤い蝙蝠がお互いに手をつなぐように輪になっている。

 さらにその外側にまるまるとしたみずみずしい桃の実や桃の花が枝葉といっしょに図案化され取り囲んでいた。

 その大きなペンダントは、重ね着のワンピースとは関係なく、白李花の起伏のある胸元の間に揺れてその豊かさを際立たせている。


「お姉さま、御無事でなによりです」


 碧桃花は姉に駆け寄ると、姉の手から仙桃の盛られたかごを受けとった。


「さあ、では、みなさまが揃ったところで、まずは記念撮影といきましょう」


 美美が声をかけた。


 緋毛氈に八重桜を染め抜いた友禅を重ね敷いた雛段には、めかしこんだ姿で菓子司美与志の面々が勢ぞろいした。


 一の段のお内裏様の座は、女雛が向かって右、男雛が向かって左で、江戸風だ。


 お内裏様の女雛の座におさまった緑珠姫は、すまし顔で身じろぎひとつせずにかしこまっている。

 いつものわがまま振りもどこへやらである。

 なぜなら、姫の右隣りにはすずろが脇息でからだを支えながら、ゆったりとくつろいでいるからだ。

 すずろは、いつもの着流しに、今日は、昔であれば着ることが禁忌だった色黄櫨染ころぜんに桐に鳳凰の瑞祥文様が織り出された狩衣をまとっている。


 三人官女は、桃源郷の桃花姉妹、麗妹と乙女道士と謳われた妹の碧桃花と姉の白李花と美美が担当する。

 向かって右側に立つ碧桃花は長柄銚子ながえのちょうしを、まん中に座る白李花は仙桃を盛った三方を、それぞれ掲げ持っている。

 美美は、今日は主催者なのでと着物姿で動き回っていたが、記念撮影のためにと、たすきをとって、三人官女の向かって左側、男雛役のすずろの前に、御神酒を注ぐ提子ひさげを持って立った。


 「美美さん、そのまま、動かないでいてください」


 すずろの声がうなじをくすぐった。

 動き回ってあちこちからほつれている美美の髪を、すずろは、くるんと指で巻いては器用に結い髪の中に押し込んでくれた。


 「あ、ありがとう、すずろ」


 美美が小声で言うと、すずろは何もいわずに笑みを返した。

 その、物言わぬとも通じ合う雰囲気の二人に、おすまししていた緑珠姫が、しびれを切らしたように、声をあげた。


「すずろ、天冠てんかんが重くてつらいのじゃ。のう、わらわの首を支えてはくれぬか」


 女雛の冠る天冠は、金銀が散りばめられていて豪華ではあるが、金属が使われている分ずいぶんと重量のあるものになっていた。


 美美は、緑珠姫のわがままで、このままみんなを待たせるわけにはいかないと気を揉んだ。

 すると、すずろが、緑珠姫との間に置かれた菱餅の端を、手ずからちぎって、緑珠姫に差し出した。


「さあ、まずは、召しあがれ。おもちをめしあがると、力が出ますよ。そうすれば、天冠を支える元気も出ますよ」


 緑珠姫は、菱餅のかけらを受け取ると、着物の袖口から菱餅を持った指先だけを見せて、まず、軽く歯を当ててから、すぐには噛み切れないと知って、小さな口で吸うようにした。


「固くはありませんか」

「すずろの手が触れたものは、みなやわくなるからの。平気じゃ」


 緑珠姫のしおらしい様子に、一同顔を見合わせた。


「菱餅は、ああいう具合に、角から食べるものなのよ」


 美美が言った。


「角がとれる、って言うじゃない」

「なるほど。角がとれるということか。それでか。さすがは、すずろだな」

 

 井桁が言うと、今度は一同うなずき合った。

 


 五人囃子は、井桁、艾人、玉兎、深川、一人足りないので、店が忙しいからすぐに帰らないと、とせいている工を説得して、記念撮影の時だけおさまってもらった。

 撮影は、郷土資料館分館の楠木館長が担当してくれた。

 最初は館長に五人囃子を頼んだのだが、眼鏡をかけていてはおかしいですよと固辞されてしまった。

 分館の準備で寝るひまもないんですよ、と、館長は祝膳を折り詰めにしてもらうと、工のバイクの後ろに乗せてもらって、挨拶もそこそこに帰っていった。


「さあ、これで、無礼講だね、美美」


 玉兎がうかれて飛び跳ねている。

 桃花酒を飲み過ぎたにちがいない。


「艾人、悪いんだけど、玉兎が酔って池に落ちないように見てて」

「もう遅い」

「え!?」


 玉兎はばしゃん、という盛大な水音とともに、池へとダイブしていた。

 笹舟はひっくり返り、人形は水を吸ってしなしなと水底へと沈んでいき、優雅な曲水の宴の風情は、一瞬で、だいなしになってしまった。


「まったく……」


 みんなで笑いあって、その後は、宵闇の中お月見をしながら、宴を続けた。

 白李花が琵琶を弾き、碧桃花が伸びやかな美声で歌い、なんと緑珠姫が舞いを披露した。


 そうして、日付が変わる頃、白李花が言った。


「さあ、では、そろそろ帰りましょう」


 白李花は声をかけると、桃の持つ霊力で穢れを祓う呪具である、桃の木の柄のついた葦の箒、桃茢とうれつを二本取り出し、一本を碧桃花に差し出した。

 柄のところに、それぞれ違う色の房飾りがくくりつけられている。


 白李花は桃茢に横すわりに乗り、碧桃花はスケートボードに乗るように、浮かせた桃茢の柄の上に器用に立った。


「それでは、おいとまいたします。とても楽しゅうございました」


 姉の白李花は、すずろに視線を投げかけた。

 すずろは穏やかな笑みを浮かべているだけだった。

 このたびの宴では、二人が言葉を交わすことはなかった。


「また、いつでもいらしてくださいね」


 美美が挨拶をすると、桃花姉妹は、二人とも手を振って、すーっと天高く桃茢を滑らせ飛び去っていった。

 桃茢が風を切って過ぎていった樹木の枝には、つぼみがふくらみ、新芽がやわらかく若緑に染まった。


「春が、来ましたね」


 緑珠姫を井桁たちに送らせてから、すずろが美美の隣りにきて囁いた。


「そういえば、桃のお菓子のことをきくのを忘れてしまったわ」


 美美がうっかりしてた、とつぶやいた。


「いつか、ききに行きましょう、いっしょに」

「いっしょに?」

「美美さんと、いっしょに、旅をするのは楽しいでしょうね」


 すずろの声の真剣さが、美美の胸を突いた。


「そ、そうね。すずろとだったら、安心できるもの、どこへだって」


 美美の返答に、すずろは、ふわり、と美美の背に両手をまわし、一瞬だけぎゅっと抱きしめた。

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