番外編 雛まつり姫まつり 五
すずろにしたためてもらった文を手に、美美が階下に降りてくると、庭の方から妙なる音曲が流れてきた。
扉を閉めているので、微かな音色しか聞こえはしないが、その音色になめらかな澄んだ声が重なり合ってきて、心地よかった。
美美は、音楽の邪魔をしないように、静かに扉を開けて蔵の外に出た。
足を潜めて歌の聞こえてくる方へ進んでいって、蔵の影から、庭をのぞいた。
庭にいたのは、少女だった。
両手を胸の前に組んで歌っている。
すっとした立ち姿は美しく、声がよく伸びている。
年の頃は、十歳を越えたくらいか、井桁よりはちょっと幼いくらいの少女が、リサイタルの真っ最中だった。
少女の小さな顔を縁取るように、耳の前に一束ずつ、艶やかな黒髪が揺れている。
他の髪は頭頂部にお団子にまとめられていて、絹の桃花が満開の花冠が被せてあった。
前髪は眉毛を隠して、ぱちっと切りそろえらえている。
その前髪の下に、巴旦杏型のつり目がぱっちりと見開かれている。
長くはないが濃いまつ毛は密に黒い瞳を縁取っている。
旅装なのか、軽やかでゆったりとした丈の長さの違うワンピースのような服を重ね着している。
光沢のある絹シフォンで、桃の花色のグラデーションに染められている。
ポシェットと背中の竹筒を胸の前で交差させて斜め掛けにしている。
彼女の周りを、近所の猫たちが取り囲み、あごを前脚に乗せて目を閉じ気持ちよさそうに耳だけ動かして目を閉じている。
彼女の歌声は、子守唄なのか、陶酔境へと誘っているのか、猫たちはお互いのテリトリーが混ざり合っているようにくっつき合って、和んでいる。
猫の会議でもないのに、家猫、野猫関係なく寄り合っているというのは、まず見られない光景だった。
美美も、歌声につられるように、歩を進めた。
「はじめまして。わたしの歌、お楽しみいただけましたか」
美美に気付いて、少女が、にこっと微笑んだ。
かわいらしい笑顔につられて、美美も微笑んだ。
「もしかして、
「はい。わたしは、妹の
大陸の山深くに、桃の果樹園を営みながら慎ましく暮らしている一族がいる。
その一族のいる場所が、実は桃源郷ではないかと、まことしやかに囁かれている。
桃源郷の花桃姉妹と謳われている、乙女道士の姉と美声の麗妹。
彼女たちにも、一族に伝わる甘味があるらしかった。
「お出迎えもせず、すみません。私は、菓子司美与志の三好美美です。このたびは、ご招待をお受けくださって、ありがとうございました」
「はじめまして、三好美美さん。あなたが、冥菓道を継がれるのですね」
「え、と、美美でいいです。冥菓道は、まだ修行中で、継げるようになるかも、まだこれからで……」
「そうなんですか、美美さん」
「そうなんです……」
美美は答えて辺りを見回したが、餅つきをしていたはずの深川と玉兎はもう仕事を終えたのか庭にはいなかった。
「お一人ですか?」
「お姉さまは、今年の仙桃をいただきに、
歯切れのいいしゃべり方に、美美は、仙桃も蟠桃園も伝説上のものではないかとつっこみそびれてしまった。
だいたいがあやかしたちが存在しているのだから、その延長で伝説が生きている場所があってもおかしくはなかった。
目に見えるものだけで世の中が成り立っているわけではないのだと、だからこそ、まじない菓子を求める人がいるのだし、冥菓道が連綿と受け継がれてきたのだと、美美は改めて思った。
「このたびは、ご招待をありがとうございます。
そう言うと、碧桃花は、背にしょった竹編みの矢筒から、綻びかけているつぼみに覆われた枝を一本抜き取ると、美美に差し出した。
枝の先はやわらかそうな革で包まれ麻ひもでしっかり結ばれていた。
美美が受け取ると、肌の温もりが伝わったかのように、枝のつぼみがいっせいに花開いた。
花からは清らかな甘い香りが漂い出した。
桃の花の香りに鼻をひくつかせて、猫たちは目を覚まし、お互いの顔の近さに総毛だって、唸り合って、本来のテリトリーを取り戻すべく散っていった。
「わ、きれい、かわいい!それに、いい匂い」
花に顔を近づけ喜んでいる美美の様子に、満足げに碧桃花はうなづくと、
「なので、本当にうれしかったんです、ご招待いただいて」
「すずろが、ご招待しましょうと提案してくれたんです」
桃源郷のお菓子の話をうかがうのも勉強になりますよ、とすずろに勧められて美美は招待状を出したのだった。
碧桃花はちらりと蔵に目をやると、斜め掛けにした刺繍で埋め尽くされたポシェットから桃色の絹の巾着袋を取り出した。
「お見舞いです。すずろさまにと、お姉さまからです。くれぐれもおからだおだいじにと。桃仁の煎じ薬湯の素です」
「すずろのお知り合い、ですか?」
美美は受け取りながら、たずねた。
「お姉さまは……」
碧桃花は、ちょっと口ごもってから、
「とてもよくお知り合いです」
と言った。
少し含みのある言い方だった。
その言いまわしの妙なことが気にかかったが、美美は口には出さなかった。
「何かお手伝いすることはありませんか」
碧桃花が申し出た。
「お客さまにお手伝いなんて、どうぞ、お茶でも召し上がって休んでいてください」
と、碧桃花は、美美が手に持っている封筒に目を留めた。
「そちらはお手紙ですね。出してきます」
「あ、これは、直接持っていかなければならいので」
「お届け先はどちらですか。お店の方はみなさんお忙しいんですよね。この辺りを少し見てまわりたいので、わたしに行かせてください」
「え、でも、これは、」
こんなかわいらしい女の子が持っていったら、ますますことはややこしくなること必至だった。
「目立たないように変装していきますから、ね、いいでしょ、美美さん」
「変装って、だったら、男の子の恰好だったら、」
碧桃花の妙な押しの強さに、美美は、条件付で申し出を承知してしまったのだった。
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