番外編 雛まつり姫まつり 四
「すずろ、入ってもいい?」
蔵の内階段を上り、美美は声をかけた。
「美美さんですか。どうぞ」
戸の向こうから返事があり、美美は戸を開けて蔵の二階の部屋へ入った。
手には、ふきんをかぶせたお盆を持っている。
「美美さん、いらっしゃい。雛飾りを出しておきました」
すずろの言葉通りに、二階の部屋には、大小いくつものつづらが並べられていた。
御節句道具がしまってある二階の奥の間から、出してきてくれてあったのだ。
雛飾りの一つ一つはそう重くはないといっても、いくつも入っているとなると、かなりな重さだ。
ふだんあまりしない力仕事に疲れたのか、すずろは気だるそうに、床に敷いた緋毛氈に腰をおろしてつづらの一つに寄りかかっていた。
美美は、文机に持ってきたお盆を置くと、すずろの傍らに座って問いかけた。
「つづら、重かったでしょう。まだ本復していないのに、こんなに動いてしまってだいじょうぶ?」
「これしきのこと、本復せずともまかなえます、っ、」
すずろは、言葉の途中で咳き込んだ。
美美はすずろの背に手をあてさすった。
咄嗟の仕草だった。
そうしたあとで、はっと美美はすずろから手を放して、
「だいじょうぶ?何か、薬湯をもってくるわ」
と、とり繕うように言った。
「待ってください」
すずろは、肩にかかった髪をさらりと手で流すと、
「美美さんがつくって持ってきてくださったのでしょう。それを、いただきます」
と、文机の上を指して言った。
「あ、ああ、これね。まだ熱いから、もう少し待ってて」
「では、ふたを開けておきましょう。そうすれば、じき冷めます」
そう言われて、美美は、文机からお盆をすずろと自分の前に移した。
すずろは、白磁のスープ椀のふたをとって、湧き上がる湯気を吸い込んだ。
澄んだスープに、柔らかそうな白い鱗片がいくつか浮いている。
シンプルだが、滋味溢れる香りが漂ってくる。
「これは、確か、
「すずろも飲んだことがあるの?」
「はい。昔のことですが」
いつの昔のことか、なぜか美美はきくことができなかった。
「百合根の少し土くささが、弱っているからだに効きそうですね。湯気でからだが、中から清められるようです」
「そう、よかった。百合根の力強さを消したくないから、他に何も入れないことにしたの」
すずろはうなづくと、言葉を続けた。
「きれいに澄んでいますね。ていねいにあくをとらないと、こうはいきません。美美さん、雛まつりの仕度でお忙しいのに、申しわけなかったですね」
申しわけないと言いながらも、すずろの口元は綻んでいた。
美美の心尽くしの一杯を味わおうと、すずろはレンゲを手にした。
レンゲの白より抜けるように白い手だった。
そのまま透けてしまいそうな。
と、急に力が抜けたように、すずろはレンゲを取り落としてしまった。
「すずろ、どうしたの」
美美はその場に崩れそうになったすずろを慌てて背中から支えて、顔をのぞきこんだ。
すずろはつらそうに眼を閉じている。
顔も透けてしまいそうに蒼白だった。
人の形を保つのがやっとというありさまで、すずろは、美美の肩に頭を預けてしなだれかかってきた。
「つらかったら、
「ありがとうございます。少し、はりきりすぎたようです」
すずろは息をようようつきながら、声も小さく消え入りそうだった。
「人手不足で……、ごめんなさい、まだ回復していないのに、すずろに雛飾りを出すような力仕事をさせてしまって」
美美の声が潤んだ、と、すずろのからだを支えるのに、隣りに座って右手を右肩に、左手を左肩に置いている美美の手に、すずろの手が前から上に重ねられた。
それから、すずろは、美美の顔を下からのぞきこむようにして見上げた。
「美美さん、そのスープをいただけませんか、そうすれば、少し回復すると思います」
美美が下を向くと、いつのまにか開けられていたすずろの瞳に、美美の顔が映っている。
美美は、そこで初めてすずろの顔が間近にあるのに気がついた。
「わ、わかったから、手を離して。レンゲが持てない」
「スープが冷めるまで、こうしています」
「え、と、もう冷めたと思う、けど」
「まだです。今少し、こうしていてください」
美美の体温を取り込んでいるかのように、すずろの手はじんわりと温かくなっていった。
その間、5分ほど。
けれど、美美には、ずいぶん長く感じられた。
すずろといると、時間の流れが変わってしまうようだった。
すずろは、手を離すと、
「そろそろ冷めたみたいですね。ひと口、いただけますか」
と、美美に言った。
手が自由になって、言われるままに、美美はレンゲでスープをひとすくい、すずろの口元に差し出した。
音をたてずに、すっと、口に含むと、すずろの顔にうっすらと赤味が差した。
「美美さん、申しわけないのですが、今少しこちらで休ませていただけませんか。力仕事でなければ、何かお手伝いできると思いますが」
美美は、少し考えてから、緑珠姫に一筆書いて欲しいと伝えた。
「わかりました。では、お待ちしてますと一筆献上いたしましょう」
「お雛さまのようなかわいらしい姫が主役だから、ぜひ来てほしいと、すずろの言葉で書いて欲しいのだけど」
「わかりました。手紙をしたためるのも久しぶりです」
「すずろが書いている間、わたしは、雛飾りの手入れをしてるから」
それから、しばし、レンゲでスープを運んですすってという動作が繰り返された。
あやかしたちでにぎやかな日常の中で、二人差し向かいの貴重なひと時は、静かに流れていった。
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