第25話

 学寮に向かって歩きながら、諸泉がどこにいるのかを必死に考えていく。急な仕事が入ったというのが嘘なのは、那智も察していた。だとすると、学寮にはいないのかもしれない。

 それならば、どこにいるのだろう。那智は汗ばむ掌をつよく握りしめる。

 ひとりでいくところ。かつ、誰かを遠ざけようとする気持ちが強くなるような場所。


 ふと、脳裏に浮かぶ光景があった。魚に触れたときの、夜の記憶。

 あの場所は、海に近かった。街灯もなく、ただ岩のようなものがあった暗い海の近く。

 諸泉は学寮に現れた魚から逃げていたと話していたから、きっと学寮からそこまで離れていないのだろう。

 そして遠くに灯台がみえる、暗い場所。そこまで考えたところで、ふとひらめくものがあった。


 ちょうど政志たちがいる場所の反対側、学寮の建物に隠れた向こう側にも、海をのぞむことのできる場所はある。

 ただそこは、人が歩くようには設計されていないので、人が立ち入ることがまずないのだ。

 人が立ち入るように作られていないあの場所も、暗く、そして遠くに灯台をのぞむことのできる場所である。

 もしかすると、諸泉が向かったのも、あの場所ではないのだろうか。ふと閃いてから改めてかすかな記憶をたどってみると、学寮の向こうと記憶の海は一致しているようにも感じられた。

 行ってみよう。そう決心したあとの足取りは、軽くなっていた。



 * * *



 遠目から見る学寮は、夏のひざしを浴びて白く輝く、ありふれた研修施設にしか見えない。

 近づくとうごめいているように見えた魚の姿も、不思議とみられないままだ。さらには人の気配も、なにひとつ感じられない。

 やはり諸泉はいないのだろう。遠目からでもはっきりと那智は思い、足早に学寮の横を通り過ぎてゆく。


 防波堤はもう歩く余地がなくなっていて、那智はそこから降り立っていた。

 細くなりつつある防波堤は、数歩歩くと唐突に消えていた。そこから先にあるのは、ごつごつとした岩肌だ。ここも、記憶で見たものと同じ場所のように思う。

 ここを諸泉は走っていったのだろうか。恐怖で混乱していたとはいえ、ずいぶんと危ない道を行ったものだ。

 ごつごつとした岩につまずきかけて、ひやりとする。立ち止まり、額から垂れてきた汗をぬぐいながら前に目をむけると、岩場の陰に隠れるようにして、ひとりの男の姿があった。


 存在感のない、薄い背中。諸泉だ。

「せんせ……」

 那智は声をあげかけて、そして言葉をのみこんでいた。

 そこにいたのは、諸泉ひとりだけではなかったのだ。諸泉のまわりを漂う、何匹もの半透明な魚。それらは諸泉を襲うことはなかったが、今にも襲いかかりそうであることは間違いなかった。


 そして、諸泉と、諸泉のまわりを泳ぐ魚たち。

 彼らの向こう側には、もうひとり、男が立っているのが見える。否、海の上にいるのだから、浮かんでいると言うべきだろうか。

 もうひとりの男の姿は、時折揺らいでいるようにも見えた。半透明に揺らいで、向こう側の夏の空が見えるのだ。


 生きているものではない。しかもあの男の姿は、間違いない――音田だ。

 諸泉は那智がここにいることには気がついていないようだった。音田と向き合って、何かを話しかけているようである。


「なあ。お前、なんでそんなもんになっちまったんだ……」

 諸泉の言葉にこたえる音は無かった。ただ独り言を言っているだけのようにも聞こえるが、那智には音田の声が聞こえないだけなのかもしれない。

 那智の考えを裏付けるかのように、諸泉がちいさく笑ったのがわかった。

「そりゃあ仕方ないだろ。人は忘れる生き物なんだ。だけど俺は忘れねぇ。それじゃあ駄目なのか」

 音田の表情はわからない。那智はただその場に佇んで、じっと諸泉の声を聞くことしかできないままだ。


「駄目か。なら……俺のことをもって行け。そもそも、本当なら死ぬべきなのは、俺なんだから」

 諸泉はゆっくりと両手を広げている。全てを受け入れようという姿勢に、ひやりと冷たいものが背を伝っていた。

「先生……!」

 隠れていることは、もうできなかった。那智が声をあげながら、ごつごつとした岩を一歩進むと、声に気がついたらしい諸泉が、ゆっくりと振りかえる。


 何も映さない、くらい目。それは、諸泉がすべてを拒むときの目の色だ。

 ゆらり、と諸泉のまわりを漂う魚たちが、諸泉に向けて一斉に動いたようだった。くらい目が那智をとらえて、そして口元がかすかに笑みを象ったように見えた。

 きっと諸泉は、音田のために、魚に記憶を喰わせるつもりなのだ。

 それを見たとき、もう留まっていることはできなかった。ごつごつとした足場を強く蹴って、跳躍する。


 足場が不安定なことだとか、目の前に半透明の音田の姿があることだとか、何も考えられなかった。

 諸泉と音田の前に割り込み、魚からかばうように、諸泉の腕を引く。

 瞬間、頭に鈍い衝撃がはしった。衝撃がきた方を見やると、そこには魚の顎があるのがわかる。

 きっと記憶を喰われたのだろう。これがあの魚に襲われるということなのか。妙にさめた頭の片隅で冷静にそんなことを考えてしまう。


 頭の血が下がったような感覚があり、ふらりと身体が傾いでいくのがわかる。

 なんの記憶を喰われていくのだろう。少し怖くもあったが、これでよかったという思いも強かった。


 やっと、諸泉の助けになることができたのだ。

 諸泉が音田をなくしてからずっと、助けになりたいと思っていた。でも那智はひとりの生徒でしかなく、諸泉につきまとったところで、ただひとりの生徒として庇護される存在から、抜け出すことはできないでいたのだ。


 でも、卒業して、戻ってきたこの地でようやく、彼の助けになれたのかもしれない。

 真っ白になる視界のなか、ただそれだけを思っていた。


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忘却のブルー 志水了 @syusuirs

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