第23話

「何もないよ」

 政志は目をそらしたまま、さらりとうそぶいていた。

 やはりおかしい。いつもの政志は、こんな風に目をそらすことはしない。いつだってまっすぐな彼は、感情をまっすぐにぶつけてくるのだ。

「嘘でしょ」

 千仁がたたみかけると、政志は今度こそ口をとざした。千仁の方を向いてくれることはなくて、つい、千仁は彼に近寄ってしまう。


「……政志?」

 千仁が問いかけると、政志はようやく千仁をふりかえってくる。表情はどこか固いままだ。

「……、さっき……」

「ん?」

「先生と何を話してたんだ?」


 怖さを感じるほどの真剣なまなざしで、政志は問いかけてくる。暗がりのなかに身体をひたしているからか、政志ではないように見えた。

 ときどき見せる、困ったように目を泳がせることも、千仁に言葉で押される政志も、そこにはいないのだ。

 背筋がひやりとする。


「何って……、音田先生のこととか……」

 じっと見つめられているからか、かえす言葉もしどろもどろになってしまう。後ろめたいことは言っていないけれど、政志には知られたくないような気持ちでもあった。

「そう……、あんな近くに寄ってたのに、それだけしか話してないの?」

 暗がりのなかでわらいながら、政志は一歩近づいてきた。千仁が距離を詰めていたせいもあるが、政志が一歩足を踏み込むと、ぐっと距離が近くなる。


 それでも、ふだん、政志と千仁が取る距離とはそれほど変わらないはずだ。

 諸泉とも同じくらいの距離、テーブルから手を伸ばせばすぐに相手に触れられるくらいの距離だったと思う。

 諸泉と話していたときは、互いの距離など気にならなかった。からだの距離よりも、こころの距離が遠いことを感じていたからかもしれない。

 けれども、こうして政志と向かい合っている今は、政志との距離の近さに、緊張してしまう。

 いつもと変わらないはずなのに、なぜなのだろう。


「それだけだよ……、ねぇ政志、どうしたの……?」

 千仁はおもわず後ろに一歩、下がっていた。胸の鼓動が速いことを悟られそうだったからだ。

 政志のことが、わからない。

 どうしてそんなに怖い顔をしているのか、そして政志が近づいてくることに緊張しているのか、わからないのだ。

 政志は千仁があとずさったことにか、それとも千仁の言葉にかはわからないが、ちいさく笑ったようだった。


「どうしたって、……わからない?」

 政志の言葉が信じられない。政志は笑いながら、そんなことを言うような人ではないはずなのだ。

 ただ首を横にふる千仁に、政志は一歩近づいてくる。まるで千仁を追いつめるかのような動きだ。

 ぐっと近づいたところで、ふいに政志の笑いが引っ込んでいた。かすかに目を泳がせて、まるで困ったかのように、眉をひそめる。


「……先生のことはすぐわかるのに」

 政志はぽつりと呟くと、ふいと一歩千仁から下がった。一歩離れた政志は、また一歩下がり、少しずつ千仁から離れていく。

 弱々しい蛍光灯のした、政志の顔がやけに青白くみえた。


「ごめん、忘れて」

 政志はそれだけ言うと、千仁に背を向けて、自分に割り当てられた部屋へと消えていく。

 千仁はしばらく動くことができずに、ぼうっと政志の背を見ているだけだった。

 いつだって頼りになる背中。今日は千仁を拒んでいるようにも見える。

 政志は、どうしてあんな態度を取るのだろう。ようやくまわりだした頭でじっと考えてみるが、答えは出ないままだ。


 ここに来るまでは諸泉のことでいっぱいだった気がするのに、今は、政志の表情が脳裏を埋め尽くしている。

 先生のことはすぐわかるのに、と言っていた。政志の言葉を思い返して、千仁はゆるく首を振った。

 誰のこともわからない。諸泉のことだって、政志のことだって、わからないままだ。

 どうして、あんなことを言ったのだろう。

 まるで別人のような政志の表情に、なぜか頬が熱くなるのを感じていた。



 * * *



 かすかに鼻に漂ってくるのは、珈琲のかおりだ。香ばしい匂いは、那智がぐっと傾けているグラスから、漂ってくる。手のひらにはグラスの温度が伝わってきて、ひやりと心地の良い冷たさだ。

 珈琲のかおりは温かいものに比べれば、かすかなものだった。それでも、起き抜けの頭を醒ますには十分なものだ。


「那智」

 グラスから唇をはなした那智のそばに、諸泉が寄ってきた。

 朝食を取り終えたらしく、手には皿を持っている。少しだけ気まずさを感じたが、諸泉の表情に、気まずさも消えていってしまう。

 そう、気まずさを上回るほどの気になることが、二人にはあるのだ。

 諸泉は那智が立つ、調理場のシンク近くまで歩いてくると、ちらりと食堂を見やる。


「おい……あれ、どういうことだ?」

「俺が知りたいです」

 諸泉の問いかけに、那智は淡々とかえした。

 那智たちの視線の向こう、食堂には、千仁と政志が座って朝食をとっている。それだけならいつもと変わらない光景だ。


 だが、いつもと違うところは、ふたりの間に会話がまったく無いことだった。

 普段とて、会話がないときぐらいはある。だがそれでもここまで会話がないということは無かっただろう。

 何よりも、ふたりの席は離れているのだ。手前に千仁が座り、千仁からすこし離れたところに、政志が座っている。

 ふたりは時折視線を向けているようなので、互いに意識しているらしいことはわかる。夕食時はこんなことは無かったはずなので、何かが起きたのはそれからだろう。


「喧嘩でもしたのか?」

 諸泉は首をかしげながらも、水道に手をのばす。水をながすと、そのまま皿を洗いはじめた。奇妙な静けさを水道の水が破ってくれ、すこしだけ緊張がほぐれていた。

「喧嘩だったら、もっと千仁が怒っているような気もしますけど」

「そうだよな……だとすると……、……どう思う?」

 諸泉は、ふたりの間に何があったのか、わかっているけど理解したくないという表情をありありとにじませている。


「先生、それ以上続けると、馬に蹴られますよ」

「おいやめろそれ以上は言うな」

 諸泉は皿を落としそうになり、あわてて拾いあげた。

 大方、かわいい教え子たちが互いのことを気にしているというシチュエーションに耐えられないのだろう。


 もしかすると千仁は無意識なのかもしれないが、政志など気持ちが丸見えだ。

 さすがに諸泉だって気が付いているに違いない。違いないのに、こういうところで慌てるのが、ついおかしくも感じてしまう。

 落としかけた皿は、諸泉の手によって綺麗に洗われ、水切り籠に置かれていた。白い皿に窓から差し込む朝陽が反射して、白く輝いている。

 朝陽を浴びながら、那智も気持ちを切り替えることにした。二人のことは気になるが、那智にできることはなさそうだ。

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