第22話


「よく知ってるな」

「そりゃあ、そうですよ」

 だっていつも見てますから。心の奥底にしまい込んだ言葉は、ふわりとほどけて消えていってしまう。

 このままではいけない。不意に心の奥底から焦りが浮かび上がって、千仁は身をのりだしたくなるような気分だった。

 そんな千仁の気持ちなどいざ知らず、諸泉はおだやかな笑みをたたえている。


「そうか。野内も熱心に勉強してるもんなぁ。こっちでは写真、撮れてるか? まあなかなか難しいと思うが……」

 何か撮れたものはあるか、と問いかけてくる諸泉は、すっかりいつもの教師としての目をしている。弱いものを抱えているように見えた諸泉の顔は、すっかり鳴りをひそめていた。

「……撮れてないです」

 千仁は苦い気持ちで否定する。諸泉はすこし残念そうな顔をしていた。

「そうか。まあこんな事が起きちまってるし、仕方がないことなのかもしれないな。もし撮りたいものがあれば、遠慮せずに声を掛けろよ」


 諸泉の声は穏やかなものだった。そこには水底のような暗さなど欠片も見られない。教師としての諸泉の声を聞くたび、自分に対するもどかしさで焦りそうになる。

 彼にそんなことを言わせるつもりはない。そうではないんだ。


「ちがう」

「ん?」

「違うんです」

 思っていることが、反射的に口をついて出てしまった。諸泉が怪訝な顔になるが、口をついて出てしまったことは、もう取り返せない。

 でも、言いたいことはあったのだ。千仁は身をのりだしてみせる。


「私も心配なんです。ずっと見ていたから」

「……野内」

「だって先生、ここに来てから、ずっと苦しそうなんです。私たちでも何か手伝えることがあればっ」

 千仁の言葉は、諸泉がゆるく首を振ったことで途絶えていた。

「大丈夫だ。気持ちだけもらっておくわ」

 諸泉は、どこかに視線を向けたのち、すこしだけ微笑んでいた。

 嬉しそうにも、どこか寂しそうにもみえる笑みだ。


「先生……」

「お前は、お前のことだけを考えればいい。記憶はもどったと聞いたが、身体は本当になんともないのか」

 先生が優しくしてくれるのは嬉しいことだった。けれども、優しくされるだけ、先生として接してくれているのがわかって、辛くなってしまう。

 辛くても、それをぶつけることは間違っている。千仁はうつむきながら、おそるおそる口をひらいた。


「先生……、先生は、消えないですよね」

「……、……当たり前だろ」


 諸泉の口調は、ひどくやさしい。

 いつも粗野なところがある彼だからこそ、つくっているということが分かってしまう、声色だった。



 * *



 諸泉と別れ、本来の目的を達成したころには、ずいぶんと時間が経ってしまっていた。

 蛍光灯が照らす廊下を足早に歩いていく。急いで戻ってこなすような用事はないのだけど、いつ魚が出るとも限らないからだ。

 食堂を出るまえ、諸泉はとても心配しているようだった。部屋まで送っていくとも言われたのだが、千仁は平気だと押し切って、探しものに励んだのだ。

 諸泉が送ってくれるのは、とても心強い。だけど、心強さよりも辛さのほうが上回っている。


(当たり前だろ)

 いまだに、ひどくやさしげな声が、脳裏にこびりついて離れないのだ。

 また再生された声を聞いて、千仁はくしゃりと顔をゆがめていた。再生するたび、胸の奥がじくじくと痛むような気がする。


 ひどく疲れたような心地で廊下を曲がろうとしたとき、ふと目にはいったものがあった。

 廊下の曲がり角、張り出したスペースはちょっとした休憩場所になっていた。古びたソファとローテーブルが置かれ、奥には海を臨める大きな窓もある。

 そんな休憩スペースの窓の前に、政志が立っていた。

 視界にはいったのは、彼の後ろ姿だ。政志は窓のまえに佇んでいて、外をながめているようだった。


「……政志?」

 千仁が声をかけると、政志がゆらりと振り返る。

 振り返った彼の表情は、一切の表情をそぎ落としたものだった。どこか思い詰めたようにも見える表情に、どきりとしてしまう。

 そこに立っているのは政志のはずなのに、政志でない、他人のように見えるのだ。


 政志は口をとざしたままだった。しんとした沈黙のなか、遠くから虫の音だけが聞こえてくる。千仁はこの場から立ち去りたい気持ちでいっぱいだったが、かろうじて踏みとどまった。

「政志? どうしたの?」

「……どうしたのって?」

 おそるおそる問いかけると、しごく不思議そうな返事がかえってきた。声だけはいつもの政志だが、表情が声についてこないのだ。いつもの彼のようで、いつもの彼ではない。


「……何か、……あったの……?」

 千仁は遠回りをして聞くことが苦手だ。おそれながらも直球の質問をぶつけると、政志の動きがぴたりと止まるのがわかった。

 政志はじっと千仁を見つめて、千仁からゆっくりと目をはずす。暗がりの光に包まれて、彼の表情は分からない。

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