第21話

 * * *


 真夏の夜は、いまだに蒸し暑さをはらんでいる。

 学寮のなかにいても、暑さから逃れることはかなわないようだった。廊下には冷房などないからかもしれない。

 千仁が廊下を歩くたび、額には汗がにじみ出てきていた。昼間は陽の光が差し込んできた廊下も、いまは蛍光灯の光が弱々しく照らしだすだけだ。


 千仁は、食堂へともどっているところだった。食事を終えたのち、いったんは食堂から離れていたのだが、忘れ物があったことに気がついたのだ。

 学寮のあちこちに記憶を喰う魚が出没するので、外へ出るのは一抹の怖さがある。それでも食堂は、他の場所ほど魚が現れないこともあって、いっときの憩いの場ともなっていた。


 食堂にはもう誰の姿もないと思っていたのだが、戻ってみるとそこには電気がついていた。

 誰かいるのだろうか。部屋のなかをのぞいてみると、そこには諸泉の姿があった。

 彼は食堂の席に腰かけて、ぼんやりとしているようだった。傍らにはカメラが置かれているので、一度部屋に戻ったらしいことは、なんとなくわかる。

 諸泉は、千仁が立てた足音に気がついたようだった。ゆらりと彼の顔があがる。


「……どうした?」

 ひとりか、とたずねてくるのに、千仁はひとつうなずいてみせた。

「座っても?」

「あ? 良いけど」

 千仁の申し出に、諸泉はぽかりと口をひらいている。意外に思ったのだろうか。

 千仁も諸泉に対して同じことを思っていたので、座ると同時に口をひらく。

「意外ですね」

「何がだ」

「先生がひとりなの」

 千仁の問いかけに、諸泉は目を見開いていた。もしかすると、自覚がなかったのだろうか。


「ここに来てから、だいたい那智さんと一緒じゃないですか。てっきり、危ないから一緒に行動しているものかと思ってましたけど」

「いや……それは……たぶん向こうが気にしてるんだな……」

 諸泉は遠くを見つめて、ぼそりと口にしていた。

 諸泉は危ういところがある教師だが、ここに来てからより一層危うさが増しつつある。

 そのせいだろう、諸泉がふらふらとひとりで学寮のなかをさまよっていたりしたら、すぐにでも那智が飛んできそうだ。それくらい、ふたりは共に行動していた。


 那智はいつもはどこか気怠そうな態度でいることが多く、誰かの面倒をみるよりかは面倒を見られるタイプだった。

 だが、学寮に来てからはいつも諸泉や千仁たちを気にかけ、面倒を見ていることが多い。

 どうしてそこまで入れ込むのか、ということは聞いていないのだが、それでも何かしらの強い思いがあることはうかがえるのだ。


 そんな那智が諸泉と一緒に行動をしていない。これはきっと何かがあったことだけはたしかに分かることだった。

「何か……あったんですか?」

「わかるか」

 千仁がおそるおそる問いかけると、諸泉はかすかに苦笑してみせる。苦い笑みはどこか力がなく、やはり何かがあったのだという思いを強くするしかない。

 だけど千仁にはきっとわかっただろう。だって、諸泉の背中を見てから今まで、ずっと諸泉のことばかり追っていたから。


 諸泉はかたわらのカメラに目を落とすと、わずかに眉尻をさげていた。

「まあ何かはあったな。……今は反省中だ」

「反省? 先生でも反省することなんて、あるんですね」

「そりゃあ失礼だな。俺にだって反省することぐらいはあるさ。何せ今回迷惑をかけているのは、俺のせいでもあるからな」

 俺のせい、と告げる言葉が、どこか沈んで聞こえる。諸泉の言葉はいつも落ち着いた、水底のような色を持つが、今日はそれよりも沈んでいるように見えた。


 諸泉の言葉に、ふと昼間、魚にふれたときに見た記憶のことを思い出した。

 怯えたような諸泉の表情。なにかから逃げている姿。

 なぜ諸泉の姿が見えたのかはわからないが、おそらくあれは音田の記憶だ。これほどまでに声が沈んでいるように感じられるのも、あの記憶が関わっているのだろう。


 諸泉のことを知りたいと思っていた。ずっと、ずっと。

 なぜ、こんなにも存在感がないのか。生気のない背を千仁たちにみせるのか。

 聞くなら今なのだ。この記憶のことを問いかければ、きっと諸泉は答えてくれる。

 それなのに、聞くのが怖かった。いつもなら真っ先に聞くことなのに、肝心のところで声が出ない。

 きっと聞けば、先生を傷つけてしまう。それがわかっているからかもしれない。

 誰かのことが気になるということは、こういうことなのだろうか。


「先生……」

「ん?」

「……カメラがありますけど、何か撮ってたんですか?」

 聞こうとしていた言葉は、別のものへと変わってしまった。諸泉は千仁の視線に気が付いたのか、かたわらのカメラを引き寄せる。

「魚が撮れるかと思ってな、探してみたんだが……こういうときは現れないんだよなあ」

 ボタンに触れて、モニターに撮った画像を表示していく。映し出される画像は、どれも見慣れた学寮のなかだった。


 廊下からロビーを撮影したもの、寮室をつなぐ廊下、階段のうえ。魚を映し出すためだろうか、露出をマイナスにし、暗くして撮っているようだ。

 だからだろうか、それともモニター越しだからだろうか。切り取られた一瞬は、全く別のものに見えた。


「この廊下は、魚がいたと思うんだが、写ってないな。やっぱりだめか……まるであいつみたいだな」

「……音田先生のことですか」

 諸泉は、苦く笑ったまま、カメラを一度強くにぎりしめる。

「ああ。あいつは俺よりもずっと熱心だったよ。このカメラも、文貴のものなんだ」

「そうなんですか……いつも持ってますよね」


 写真部での活動のときは、それぞれ自分のカメラを持っている。だがそれとは別に、写真部の部室にも、いくつかのカメラがあるのだ。

 諸泉が使うのは写真部としてのカメラがほとんどだ。だからこそ、てっきり諸泉自身のものだと思っていたのだが、音田のものとは知らなかった。


 諸泉のことを知れば知るほど、彼が底知れぬ暗がりのなかにいることがわかって、言葉に詰まってしまう。

 千仁はいつだって先走ってしまうから、こういうときに正しい言葉を正しくかける術を知らないのだ。

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