第20話

 那智の記憶にとびこんできた諸泉の顔にも、隈はあったような気がする。ひどく憔悴して見えたのはたしかだ。

「……先生」

「ん」

「先生は、何に怯えていたんですか?」


 那智の問いかけに、諸泉の手がぴたりと止まった。彼の表情がごく近くに見えるため、はっきりと驚きに彩られているのが見えてしまう。問いかけたことに少しだけ後悔していた。

「見たのか」

「……はい」

 諸泉はよほど驚いたのか、しばらく固まっていた。あまり見ない表情なので、珍しくも感じられる。だがすぐに、いつもの諸泉にもどっていて、彼は唇をゆがめていた。


 だがいつもの、と考えたところで、いつもの諸泉とは違うようにも見えた。

 彼は音田が死んでから、どこか影を背負っているようなところがあったが、今、目の前にいる彼はぐっと深い影を抱えているように見える。

 こういうときは、あの日のことを思い出しているのだ。


「……魚だ」

「魚? 魚って、あの」

 思わぬ答えに、那智はおうむ返しにしてしまう。那智の指が空中を指し、諸泉は苦く笑っていた。

「そうだ。言っただろ。あのときも、今ほどじゃあないが空を泳ぐ魚がいたんだ。もちろん学寮だけじゃない。あちこちでだ。俺はそんなに見たことはないが」

 見たことはあるか、と聞かれて、那智はゆるく首を横にふっていた。

 那智も今まで、この世ならざるものを見たことはある。だがそこに空を泳ぐ魚はなかったはずだ。


 かすかに、那智の手をつかむ諸泉の指の力が強くなる。

「あのときも、魚は泳いでいた。俺以外に気がつく奴はいなかったから、魚は俺を狙っていたんだと思う」

「俺もいたはずなのに……なんで、俺には……」

 那智はぽつりとこぼしていた。

 まだ音田が生きていたあの夏の日、那智も写真部の合宿にいたはずだった。だが那智には、魚を見た覚えがない。

 それだけではない。魚を見た覚えもなければ、合宿中、諸泉と会話をした記憶すらない。まったく顔を合わせていなかったのだろうか。そこまで考えて、とある可能性に至る。


「もしかして……」

 気がつかないうちに、自分も魚に記憶を喰われてしまっているのだろうか。

 そんな、声にならない那智の叫びを諸泉は汲みとったようだった。

「どうだろう。もしかすると記憶を喰われているのかもしれないが、喰われているだけではないのかもしれない」

 諸泉はゆるく否定してみせる。否定してみせるということは、何か知っていることがあるのだろうか。

「というと?」

「俺はあのとき熱を出していたから、お前達とは離れていたんだ。魚が襲ってきたのは、そのときだ」

「そういえば……」


 諸泉の言葉に、よみがえる記憶があった。

 音田が事故で亡くなったあの夏の合宿。諸泉はいつもより覇気がなかったのだ。

 学寮に着くまでの道すがら、那智は諸泉と何度か会話をしていたと思う。いつもなら諸泉は快活な態度で、那智と接してくれるはずだった。だがあのとき、諸泉は言葉すくなにかえしてくれるだけだったのではないだろうか。


 あのときは朝もはやかったので、眠かっただけなのではないかと思っていたのだが、本当はあのときから具合が悪いのではないだろうか。今になってようやく気がついた。

 そのあと、本当なら諸泉と音田がそろっているべき場面でも、諸泉は姿をあらわすことはなかった気がする。

 合宿独特のうわついた気持ちがつよかったので、そこまで気がまわらなかったのだろう。


「いつもだったらもっとうまく立ち回ることができたんだと思う。だがあのときは、夏の暑さと、熱にやられて、どこかおかしかったんだ」

 だから、魚が襲ってきたとき、なぜかとても怖くて。――怖くて。逃げ出したんだ。

 諸泉は顔をうつむけて、ぽつりと呟いていた。彼の声はかすかにふるえているようで、那智はぐっと拳を握りしめている。

「俺が逃げ回っていることに、文貴もすぐに気が付いていた。あいつもこの世ならざるものが見えるからな。だが俺はあいつが宥めてくれた記憶を……なくした」

 うつむいた諸泉の表情はうかがえない。

 ただ表情を隠しているだけなのに、なぜか拒絶しているようにも感じられる。


「それからはきっとお前の見た通りだ。何もわからなくなった俺は逃げて逃げて……そして、すんでのところで……」

「せんせ……」

 諸泉の声がはっきりとふるえていることがわかって、那智はおもわず彼の言葉を遮っていた。

 那智にとって諸泉は不屈の強さをもつ、いつまでだって、卒業しても先生のままだった。

 だが今、那智の前にいる諸泉は、くっきりとした弱さを持つ男のように見えた。


「先生、ごめん。こんなことを聞いて、ごめんなさい」

 諸泉の手は、いつの間にか那智の腕からはなれていた。残された腕には、うっすらと赤いあとが残っている。

 諸泉はゆっくりと首を横にふって、顔をあげていた。

 その目は那智を見ているようで、何も色を成していないように見える。


「いや。巻き込んだのは俺だからな」

 諸泉はかすかに笑う。音田が亡くなってから何度もみせる、どこかもろい笑顔。

 この時の諸泉は、すべてを拒むのだ。

「だからな、これ以上は深追いするな。何かあれば俺を呼べ」

「せんせ……」

 おもわず息が詰まりそうになる。那智がおもわず諸泉を呼びかけたが、それ以上に早く諸泉は口をひらいていた。


「深追いは、俺がする」


 かすかに笑う諸泉は、夕暮れの弱いあかりに照らされていた。

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