第19話

 * * *


 ざああ、と水の流れ落ちる音がする。

 誰もいない食堂横の調理室。夕暮れが近くなっているのか、あたりは少しずつ薄暗くなっている。ステンレス製のシンクには、一定の間隔で水が流れ落ちていた。


 那智は右腕をのばして、流れ落ちる水に腕をさらしていた。

 はじめはぬるく感じていた水も、流しているうちに冷たく感じられる。長い間さらしているせいで、右腕の感覚はなくなりつつあった。

 水音だけが聞こえる調理室。ぼうと水をながめていると、廊下から駆け足で足音が聞こえてくる。

 重い足音。それだけで誰が来たのか、わかってしまう。


「おい、那智」

 調理室の入り口に顔をみせたのは、諸泉だった。千仁と政志は軽い足音だから、重い足音だけで諸泉ということがわかってしまう。

「先生……」

 諸泉は急いでここまでやってきたのか、息を切らせていた。那智が何をしているのかに気がつくと、表情を険しくさせていた。

「やられたのか」

「ちょっとだけですよ」


 水にさらされている右腕は、薄らと赤くなっていた。諸泉にはどこまで見えているのかわからない。だがさらに表情を険しくさせている。

「深追いはすんなって言っただろ」

「えへへ……」

 確かに言われた。千仁、政志たちのまえに魚があらわれて追いかけようとなったとき、もう一匹の魚が那智たちのまえに現れたのだ。

 どうするかと判断に迷ったふたりだが、はじめに動いたのは那智だった。諸泉の背を軽く押すと、那智は反対方向へ向かう。

 那智の声を呼ぶ諸泉に、そっちに行けと後押しして、そして那智は魚を追ったのだ。


 そのとき、たしかに諸泉は深追いをするなと言ったと思う。那智も深追いをするつもりはなかった。

 だが予想をこえて、魚が那智へとせまってきたのだ。

 ざざ、と水は流れ落ちている。耳にせまる水の音が、強くなった気がした。

 ざざ、と流れ落ちる水の音が、何かと重なったような気もする。


 海の底に落ちていくときの、濁流の音。かすかに見えていたはずの視界は、真っ暗なものへと変わっていた。

 何も見えない、動くことすらかなわない恐怖に包まれて――。


「那智?」

「……ッ」

 諸泉の声に、闇へと沈んでいた視界はひといきに引き上げられていた。


 今、目の前にいるのは諸泉だ。諸泉は、流れる水にさらされている腕をつかんでいる。

 これは現実だ。学寮での、夕暮れ前の光景だった。

 では、たった今まで見えていたものは何だったのだろうか。問いの理由は答えずともわかっている。


 あれは、那智が魚を見たときに流れ込んできたものだ。

 暗い、海のなかに落ちていく映像。

 あの映像が誰かの記憶だとして、誰の記憶ということかは、すぐにわかっていた。海に落ちる直前、諸泉のおびえた顔が見えたからだ。

 あれはきっと、音田の記憶だろう。

 那智の考えていることなどいざ知らず、諸泉は腕をひきあげ、しげしげと眺めていた。


「手当てするよ。たしか食堂に救急箱を置いてたはず……」

 諸泉はそれだけ言うと、調理室を出て行った。那智は近くに置いていたタオルで腕を拭い、後を追う。

 食堂には、窓からの日差しが差し込んでいる。夕暮れどき、橙色の薄暗いひかりだ。

 他にはテーブルと椅子だけの空間。その片隅で、諸泉はかがんで棚と向き合っていた。棚をあけては物をとりだし、目当てのものを探しているようだ。


 那智はその場に佇んだまま、じっと諸泉の背を見つめていた。

 どこか覇気のない、細い背中。今となってはようやく見慣れた背中だ。

 かつて音田が隣にいたときの諸泉は、こんな人ではなかった。

 諸泉は、もっと存在感のある生命力にあふれた人だったように思う。ただ、人を遠ざけるようなところがあった。そんな、諸泉に対する近づきにくさを消していたのが、音田だった。


 同期だからだろうか。ふたりは学内でも共に行動していることが多かった。特に部活では、音田が体の良い荷物持ちだと諸泉を引き込んでから、諸泉もカメラに興味を持っていたように思う。

 あのとき、諸泉はどこか刃を思わせるような、鋭い雰囲気を背負っていた。そんな鋭さを丸くしていたのが、音田なのだ。

 そんな彼が、存在感のない背中になってしまったのは、音田を失ってからだった。


「あった」

 諸泉は探していたものを見つけたらしい。棚から何かをひっぱりだして、那智へとふりかえってきた。

 彼の手に抱えられていたのは、救急箱だ。まだ真新しいそれは、夕暮れ時の光を反射してぴかりと光っている。

 諸泉は食堂のテーブルに救急箱を置くと、軽くテーブルを叩いてみせた。


「ほら、すわりなさい」

「……はい」

 那智が腕に負った怪我は、手当てをされるまでのものではない。本当は断ってしまいたかったが、断ったところで、那智は強引に手当てをするようにも思えた。

 那智はおとなしく椅子に腰かけ、腕をさしだす。諸泉は救急箱をあけ、目当ての薬を探しているようだった。


「……ところで、あの魚のやけどに、普通の薬って効くんでしょうか」

「……さあ」

 那智が抱いた素朴な疑問をぶつけると、諸泉の動きがぴたりと止まった。食堂内に、沈黙がおとずれる。

 諸泉はしばらく無言のまま固まっていたが、やがて、気を取り直したように動き出した。救急箱からやけどに効く薬を取り出して、塗り込んでいく。


「痛むか?」

「今はそれほど」

「……そうか」

 諸泉はそれだけを呟いていたが、口元はすこし緩んでいる。那智の目から見ても傷はそれほどでもないので、安心したのだろう。

 ごく間近に、諸泉の顔がある。伏せられたまぶたの下には、うっすらと隈ができていた。

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