第18話

 ためしに鳴らしてみせた鈴の音。効果は絶大だった。

 ゆるやかに千仁へと泳いできていた魚は、鈴の音にふいと向きを変えていたのだ。そして勢いをつけて離れていこうとする。

「逃がすか!」

 唐突なことに、今までのためらいなど一瞬にして吹っ飛んでいた。


 千仁はぐいと手を伸ばす。気がつけば、半透明のうろこに触れていた。

 感触がないはずのうろこは、奇妙な感触があった。ひんやりとした、ゼリーに触れているような感覚。

 これは何だろう。千仁が疑問を抱いたとき、その感触が「水」であることがわかる。


 薄暗い、暗い水の感触。


 暗い夜の海だった。街灯もない海辺で、ただ遠くに灯台のともしびがあるだけの暗い海。

 それでもかすかな月明かりが、目の前に立つのが諸泉であると知らせてくれる。

 今よりも少しだけ若い、諸泉の姿。彼はあらく呼吸をくりかえしていた。なぜかおびえたような目をしていた彼は――、唐突に表情を変える。

 驚きに目をまるくしたのち、ふっと、目の前から諸泉の姿が消えていた。


 魚のうろこが水であるとわかったのは、何かの記憶が流れ込んできたからだ。冷たいと思っていた感触が、たちどころに熱を帯びる。

「っ、痛っ……!」

 とつぜんのことに、千仁はおもわず手をはなしていた。すると、かろうじてのところでつかめていた魚が、すいと離れていくのがわかる。


「っ……!」

 遠ざかる魚の姿に、考える前に手を伸ばしていた。ふたたび魚のうろこをつかんだと思うと、熱い感触が伝わってくる。

「千仁!」

 横にいた政志が、千仁を止めるためか、腕をつかもうとしてきた。ぐっとつかんだ政志の手が、千仁の手から魚を離そうとしているのだ。

 今、腕をはなすと、魚を逃がしてしまう。それは駄目だ。

 千仁は政志の腕をふりはらおうと、大きく身体を動かしていた。同時に、手にしていた鈴の音が鳴る。

 りぃん、りぃんと高くなる鈴の音。


 学寮の廊下を走ってゆく誰かの背中が見える。あれは、諸泉だ。

 待て、と発せられた言葉に、諸泉が顔だけ後ろを振り向いて、こちらを見る。おびえたような表情。

 悪い、と諸泉は言い捨てて、玄関へと走り去ってゆく。


 塀に隠れて、塀越しに諸泉たちをうかがう千仁。ふりかえると、どこかあきれたような政志の顔。


 あきれた政志の顔が、誰かの顔と重なっていく。

 重なった先は、少年の顔だろうか。今の政志よりもずっと幼く、あどけない表情だ。


「う、」

 記憶の奔流にのまれていた千仁は、政志のうめき声に、うつつへともどってきていた。

 ごく近くで、政志は千仁の腕をつかみながら、かすかにうつむいている。面には苦しみが浮かんでいて、千仁は魚と触れていた指先をはなしていた。

 指先がはなれていったとたん、しっかりと感じていた魚の気配は消え去っていった。


「政志」

 名を呼ぶと、政志はふらりと顔をあげていた。どこか憔悴したような表情。彼も、何かを見たのだろうか。

「……平気か」

 大丈夫なのと聞くまえに、政志が問いかけてくる。政志だってつらいだろうに、それでも千仁を気遣ってくれるのか。そう思うと、こわばっていた指先があたたまるような気もしていた。

 千仁はうなずく。


「うん。私よりも、政志のほうがひどい顔してると思う」

「そう……か?」

「うん、そうだよ」


 政志は驚いたかのように、瞬いていた。強めにつかまれていた手が、そろそろとはなれていく。腕には、かすかに赤い痕が残されているようだった。

「うーん、ふらふらする……」

 政志は額に手をあてて、深く息を吸っていた。やはり、彼も記憶が流れこんできたのだろうか。

「政志も見たの?」

 記憶を。千仁も身体はすこしふらついていた。千仁も自身を落ち着けるように、ひとつ、深呼吸をする。

 そうしているうちに政志も落ち着いてきたようだった。顔色はずいぶんとよくなっている。


「見た」

 政志は言葉すくなにそれだけ呟いていた。政志は眉をよせて、千仁を見ている。

「顔色、悪いな」

「それは政志も」

 自分の顔色を見ることはできないが、政志と同じように悪くなっているらしい。

 ふたりとも顔色が悪いのは、同じものを見たからだろうか。それとも、千仁の――千仁のものなのか――記憶が急に戻ってきたからだろうか。


「……見たのって、あの先生の?」

「……うん」

 千仁が問いかけると、政志はぐっと喉をつまらせていた。やはり、同じものを見たのだ。

 きっとあれは、音田先生が死ぬ間際の記憶だ。

「野内、大迫」

 千仁のうしろから、諸泉の声が聞こえた。振りかえると、諸泉が息を切らせてやってくるところだった。那智の姿はない。


「大丈夫か」

「なんとか……那智さんは」

 諸泉はふりかえって、廊下の奥を指さした。

「あっちにも魚が出たから、追いかけてみるってな。深追いはするなって言ったが……」

 諸泉の表情は苦い。ひとりで行ってしまった那智のことを心配しているのだろう。

 苦い顔の諸泉と、たった今、記憶に流れ込んできた諸泉のおびえているような顔が重なっていた。


「先生……」

「どうした。気持ち悪いか?」

 諸泉はいつになく優しい声音で、ふたりの顔を交互に見やっている。

 純粋に心配されていることに、たった今見た記憶のことを伝えることは、できなかった。

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