第17話

 視線の先には、諸泉と政志の姿があった。二人とも黙々と掃除をつづけている姿が目に入る。千仁たちが見ていることには気がついていない様子だ。

「珍しくぼんやりしてるから」

「そうですか? ぼんやりというよりはうんざりかも」

「あー、わかるわー。先生を放っておけなくて付いてきたは良いものの、こんなに仕事を頼まれてきたとは思わなかったし」


 確かにぼんやりしているかもしれないが、もしかするとそれは暑さのせいかもしれなかった。それとも、この押しつけられた仕事のせいなのかもしれない。

 那智も同じことを思ってくれていたのか、強くうなずいている。

「でも、それだけじゃあないでしょ。気になるのは先生? それとも政志に?」

 那智は千仁の話にうなずきながらも、ずばりと要点をついてきていた。

 千仁は那智の顔を見つめたまま、口ごもってしまう。


 誰が気になっているのかを問われれば、ここにいる全員と答えるだろう。けれどもそれは表面上のものにすぎない。

 諸泉のことは、ずっと気になっている。けれども、諸泉のこと以上に、政志のことも気になっていた。

 いつからだろう。那智が言い出した作戦に猛反対したときだろうか。それとも、まっすぐに聞きたいことを口にした姿勢からだろうか。

 考えれば考えるだけ、なぜなのかが分からなくなっていた。


「那智さんは、どうなんですか」

「ん?」

「先生が気になって追いかけてきたんですよね。今もそうですか?」


 かすかに笑っていた那智は、つと真顔になっていた。ふたたび諸泉へと視線を向ける。

 諸泉を見ているはずの目は、ずっと遠くを見ているようにも見えた。


「今も……そうかな。俺が気にかけてないと、先生のことを気に掛けてくれる人、いなくなりそうだし」

「だから、今も写真部に顔をだしてくれているんですか」

「ま、そうかもね。でもここにくれば、音田先生が残した機材があるし、それを貸してもらえるっていう気持ちはあるかも」


 千仁をふりかえった那智は、やわらかく笑う。そこには思慕の念がこめられているように見えた。

 諸泉や那智がここにたどりつくことになった音田先生は、どういう人なのだろう。

 話を聞くごとに、幻の向こうが気になっていくのだ。生前の姿は、千仁にもつかめるのだろうか。


 千仁が思いを馳せていると、のろのろと掃除していた諸泉と政志が急にふりかえってきた。ふたりが唐突にふりかえったので、千仁はおもわず肩をふるわせていた。

「え? 何?」

「何だ?」

 政志たちは真顔である。さらに千仁たちの声が聞こえているのかいないのか、真顔で歩いてくるので、絵面は怖い。

「えっ何々、怖いんだけど!」

 千仁は抗議の声をあげるが、それすら聞いていないようである。ふたりとの間をかなり詰めてきたところで、ようやく政志が後ろを振り返った。


「出たぞ」

「え?」

 出たとは一体何か。そう思ったのはわずかな間だった。

 ふたりが慌ててやってきて、出たと騒ぐなら、それは魚に他ならない。

 千仁はおもわず那智と顔を見合わせていた。それから政志たちへと顔を向ける。

 政志を見たとき、彼はどこかこわばった表情をしていた。だがそれは一瞬で消えて、政志はすぐに後ろをふりかえる。

 そして、一点を指し示していた。


 政志が指さした先には、かすかに泳ぐ魚の姿があった。あれが千仁の記憶を奪った魚なのかは、ここからでは分からない。

 千仁はポケットに突っ込んでいた鈴を掌に取りだしていた。掌にのせた鈴は金色で、軽やかな音が鳴る。

 軽やかな鈴を握りしめると、かすかな冷たさがあった。かの先生が持っていたという鈴。鈴の冷たさに背を押された気がして、千仁は廊下を歩きはじめる。


 魚のいる方向へ歩いていくと、少しずつ、視界が青に変わりつつあるようだった。まるで自分が水槽のなかへ取り込まれたような感覚にもなる。

 視界が青に変わるなかで、今度は魚の輪郭が、はっきりと象られつつあるようだった。形がはっきりとすればするほど、はじめに出会ったあの魚ではないかという思いが強くなってゆく。


「千仁」

 魚へ向かって一身に向かっていたせいか、ごく近くで声が飛んでくるまで、政志の存在に気がつかなかった。

 ぎょっとしてふりかえると、すぐ後ろに政志の姿がある。

 政志は真剣なまなざしで、目の前を泳いでいる魚を追っていた。ときおり手が前に出てくるのは、何かあったとき、千仁を止められるようにとのはからいだろうか。


 政志の行動に嬉しさを抱きながら、千仁は魚へと向き直る。

 気がつけば、魚との距離はぐっと狭まっていた。片手を伸ばせば、すぐにでも魚のうろこに触れられそうだ。

 触れてしまえば、記憶がもっていかれてしまうかもしれない。学寮で目覚めたときの、さまざまなものが抜け落ちてしまったことを思い出して、千仁はかすかにためらっていた。


 それでも、ここで引き返すことはできない。

 千仁はぐっと唾をのみこんで、掌を伸ばしていた。もう片方の手には鈴をもち、りんりんと鳴らしてみせる。

 薄く青みがかった部屋のなか、りぃん、りぃんと鈴の音が鳴る。


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