第16話

 那智の考えこむ仕草をまえに、千仁もあのときのことをふりかえってみる。

 あのとき、千仁に記憶が戻ってきたのは偶然だと思っていたのだが、もしかすると、なにか条件があるのかもしれない。そこまで考えたところで、とある可能性にたどりつく。


「もしかして、先生の声を聞いたからとか」

 あのとき、諸泉は幻に向かって声をあげていた。

 幻は諸泉の声に反応していたようだったし、ひょっとすると彼の声で変わるのかもしれない。

 諸泉は千仁の話にうなずきつつも、どこか納得のいっていないようすだった。しばらく考え込んでいた那智が、そうだ、と声をあげる。


「そういえば、俺と先生だけのとき、食堂で魚に会いましたよね」

「……そうだな」

「あのときも、こっちに向かってきた魚、途中で方向を変えませんでした?」

「……そういえば」


 千仁の知らないところで、どうやらこの二人は魚と遭遇していたらしい。二人は揃って空を見上げている。

「あのときと共通なことって、何かありませんでした?」

「共通なことね……」

 諸泉はそう呟いたきり、しばらく黙っていたが、やがて何かを思い出したかのように声を上げた。

 ポケットのなかを探ったかと思うと、何かを取り出してみせる。


 ちりりと音の鳴るそれは、鈴のようだ。寮の鍵が鈴に付けられているようで、鈍く銀色に輝く鍵が、光を受けて反射する。

 千仁はそれを見たとき、男の幻と遭遇したときのことを思い出していた。

「あ」

 そういえば、魚がこちらに向かってきたとき、諸泉は鍵を取り出していたのだ。あたりにりぃんと鈴の音が響いていたのを覚えている。


「先生、魚がせまってくるときにそれ、取り出してましたね」

「ああ……無意識だったが、もしかするとこれのおかげだったのかもしれないと思ってな」

「言われてみれば……食堂のときも鈴の音が鳴ってたなあ」


 諸泉に近づいてきた那智も、鈴の付いた鍵をのぞきこんでいる。のぞき込みながらも、どこか不思議そうに首を傾げたままだ。

「しっかしその鍵と、いったいどんな関係が……」

 那智の疑問に、諸泉は広げた掌をひととき握りしめていた。握りしめたあと、もう一度ゆっくりと掌を広げてみせる。


「この鍵は、あいつが最後に持ってた鍵だ……無茶言って預からせてもらっていたんだ」

 諸泉のつぶやきに、ふたたび全員が口を閉ざしていた。

 洗濯機と乾燥機だけが音を立てる空間で、諸泉はしずかに鍵を見下ろしている。

「これが、突破口なのかもしれないな」

 ぽつりと何かを決意したかのような言葉が、こぼれ落ちていた。



 * *



 リノリウムの床は、遠くまで続いている。

 学寮は一学年全員泊まることのできる寮で、寮室もいくつもある。そのため、寮室をつなぐ廊下は延々と長い。

 千仁がはじめて研修で来たとき、ずいぶんと広い場所だ、と関心したものだが、今はその広さがどうにも憎く感じられた。


「……暑い……」

 廊下には冷房が設置されていないらしい。窓を開けてはみたものの、気休め程度にしかならなかった。

 何より、今の動作はどうしても暑さを呼び起こすものだ。千仁は手にしているモップを恨めしげに睨んでしまう。


 視線を先に送ると、そこには那智の背中が見える。ずっと遠くには、諸泉の姿もあった。

 那智は掃除機をかけていて、諸泉は千仁と同じく、モップを手にしている。ふたりとも、やる気は無さそうだったが、手は止まることなく動いていた。

 これも請け負った仕事のひとつだ。何しろ怪奇現象のせいで、学寮で働いていた人たちが皆逃げ出してしまったので、こういった仕事が滞っているらしかった。そのため、代わりに請け負うことにしたのだ。


 請け負うとはいっても、学寮のなかを魚がさまよっている以上、すべてのことができる訳ではない。できるならば一刻もはやく魚をなんとかしたいところだ。

 魚をなんとかしたいところなのだが、簡単に駆除して終わりにできないのがむなしいところだ。何せ神出鬼没の得体のしれない代物である。おまけに触れると記憶を持っていかれることも多い。


 諸泉の話を聞いてから、四人であれこれこれからの対策について話し合った。

 諸泉たちは千仁の記憶をすべて取りもどすことが重要だと語っていた。そんな中、那智が切り出したのは、千仁の記憶を奪った魚を見つけ出して、鈴を鳴らして近づいたらどうかというものだった。

 千仁の記憶が戻ったときも、鈴が鳴っていた。言われてみれば那智の言う作戦はまっとうなものに思える。


 だが、それに猛反対したものがいた。政志だった。それまで黙って話を聞いていた政志が、顔を赤くさせて反発したのだ。

 それは危ない。もしもう一度接触して、せっかく取り戻した記憶をもっていかれたらどうするのだと言う政志の言葉は、もっともなことだ。千仁も同意できる。

 しかし、今は他に方法がない。だから千仁がやってみると口にして、その場は収まっていた。

 収まっていたが、政志の機嫌は目に見えて悪くなっていた。

 今は遠くにいる諸泉のさらに向こう、米粒のような姿になっているので、表情はわからない。だが、千仁と向き合っているときの政志の機嫌は、とても悪かったことは間違いない。


 千仁がモップを手に突っ立っている間に、那智が掃除機をかける手を止める。那智は千仁の方向を振り返り、千仁を見て、きょとんと目を丸くする。

「……気になる?」

「え?」

 那智はかすかに笑っているように見えた。言葉の意味がわからず、千仁が思わず問い返してしまうと、那智は反対の方向へとふりかえる。

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