第15話

 予想はしていたが、想像するのと、現実を目の前に突きつけられるのは、重みが違う。

 彼が死んだのなら、千仁たちが目にした幻はこの世のものではない「何か」なのだ。

 背景を理解するにつれ、今起きている現象が何か、諸泉たちがどうして怪奇現象と騒がれている学寮に乗りこんできたのか、少しずつ分かってきた気がする。


「どうして……なんですか」

 政志がぽつりと問いかけるように、呟いていた。ひとりごとにも似た声音だったが、洗濯機が止まったせいもあり、その音は大きく響く。

 政志の言葉を聞いた途端、諸泉の表情がはっきりと変わっていた。眼鏡の奥に見える目は、さっと翳りを帯びたようにも見えた。はっきりと、千仁が見ていた生気のなさが浮かび上がっているように感じられる。


 諸泉はあきらかに沈んだようすだったが、それでも話を続けてくれる。

「この学寮に魚が出るのは、昔からなんだ。こうして人を襲うってことは滅多になかったが……あの日、俺は魚に追われていた。追われて、岩場を走りまわって……海に落ちたんだ」

 淡々と、感情をおさえた声。

 無理をしているのはわかっていた。だがそれでも、諸泉の言葉を止めることなんて――できない。


「俺のすぐあとを追っていたのが、文貴だった。海に落ちた俺を助けるために飛び込んで、それで……」

「先生。もう、いいですよ……」

 淡々と話す諸泉を遮ったのは、那智だった。うつむいた諸泉の表情はうかがえない。ただ震える掌が、隠された表情を知らせてくれるようだった。


 諸泉たちの過去をまえに、誰もが口を閉ざしたままだった。洗濯機がまわる音だけが静寂を埋めていたが、洗濯機もやがて高い電子音をたてて止まってしまう。

 完全に静寂が包み込むなか、諸泉は顔をあげていた。そこに映る面はもういつも通りのもので、翳りはきれいに拭いさられている。

「悪いな。後味の悪い話で」

 存外さっぱりとした声音だったが、つくっているのはすぐに分かった。千仁は黙ったまま、首を横に振る。


 諸泉を追いつめるつもりは欠片もなかった。

 諸泉がどうしていつも生気のない背中を見せているのか、気になっていたから、話を聞けたことは良かったのかもしれない。

 けれど、こんな話だとは思っていなかったし、こんな顔をさせるために追いかけていた訳では無かったのだ。


 じわじわと後悔がたちのぼってくる。諸泉たちが何故ここにいるのかを知らなかったとは言え、もっときちんと考えていれば、彼らが抱えているものが重いものであると気がついたに違いないのだ。

 もう、ただ、じわじわとたちのぼる後悔をかみしめることしかできない。


 千仁が後悔をかみしめている間に、諸泉は気持ちを切り替えているようだった。腰をあげ、動きを止めた洗濯機に歩みよる。洗濯機から取り出されたのは、いくつも皺を寄せたシーツだ。

「学寮で怪奇現象が起きているって話を聞いたのは、去年あたりからだったかもしれない。はじめは噂で済むぐらいのかわいいもんだったが、いつの間にか、人がいなくなるぐらいのもんになっちまった」


 カゴに取りだされたシーツは、いつの間にか山と積まれていた。それを乾燥機のまえに運び、乾燥機に放り投げていく。それを見ていくうちに、千仁も何かしなければという気持ちが戻ってくる。

 千仁も腰をあげて、シーツをたたみ始めた。その間にも、諸泉の話は続いている。


「はじめは気にしちゃあいるぐらいだったが、男の幽霊を見たって聞いたあたりから、どうしても真実を確かめたくなってな。学寮は閉鎖したし、代わりの仕事を請け負うことにした訳よ」

「はあ……、それでこんなに大量の仕事を……」


 隣で政志も手の動きを再開させながら、思わずといった体でぼやき声をあげていた。政志の表情は暗く、彼もまた後悔していることがうかがえる。

 それでもこの大量のシーツをまえにしては、愚痴のひとつでもこぼれてしまうのだろう。それは千仁も同意できることだ。

「まあ、俺もこんなにあるとは思わなかった」

 仕事を引き受けてきた本人も、うなずいている。どうやらここに来て、後悔しているようだ。


「だけど、引き受けただけの価値はあった」

 ようやく腰をあげた那智が、ぽつりと呟いた。那智の言葉に、諸泉もうなずいている。諸泉は乾燥機の蓋を閉めて、腰を伸ばす仕草をみせた。

「そうだな。男の幽霊ってのが文貴だとはっきりしたし、魚の原因が文貴ってこともわかった。それがわかっただけでも良かった」

「俺は見てないですけどね」

 那智はすこし不満そうだ。言われてみれば、このなかで文貴と呼ばれる男の姿を見ていないのは那智だけなのだ。なぜだったかと考えて、理由に思い至る。


「そういえば、あのとき、急に魚の数が減ったような……」

「……言われてみれば、そうだな。俺は文貴で頭がいっぱいだったが……野内の記憶も戻ってきたんだったか?」

 千仁はうなずいていた。なぜかは分からないが、魚が近づいて遠ざかったとき、記憶がいくつもよみがえってきたのだ。

「ふうん……」

 那智は話を聞きながら、深く考え込んでいるようだった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援した人

応援すると応援コメントも書けます