第13話

「くそ……、ふたりとも、こっちだ」

 ぼんやりとしていた諸泉が、急にはっきりとした声をあげた。千仁はぐいと腕をつかまれて、背中に追いやられていく。

 薄く、生気のない背中が目の前にある。

 離れた場所では生気のないと思っていた背中も、間近で見るとうっすらと汗をかいていて、呼吸をするたびに上下するのがわかる。

 生きているという感覚がはっきりと目の前にあることに、どきりとしてしまった。

 諸泉の授業を受けているときも、部活動で顔を出したときも、彼の背中はやけに薄く、生気を感じることができなかった。だからこそ気になったし、こうして追いかけていたのかもしれない。

 でも、それはただの思い違いなのかもしれない。


 軽く混乱する千仁の前で、諸泉はどこかを一心に見つめているようだった。見ているのは、一瞬にしてかき消えた、あの男がいた場所だろうか。

「……文貴ふみたか。持っていくのなら、俺の記憶を持って行け! お前も教師なら、わかるだろう!」

 す、と息を吸った諸泉は、誰もいない場所に向かって大きく声をあげていた。よく通るはずの声は誰にも拾われることなく、静寂のなかへと消えてゆく。

 千仁は事態を飲み込めないまま、先行きを見守ることしかできないままだ。


 そのかわり、諸泉の声に反応したのは、魚たちだった。空を泳いでいた魚のうち一体が向きを変えて、千仁のもとに近づいてくる。

「は……?」

 大きな、まるでマグロのような魚が、ゆっくりと泳いでくる。行き先は明らかに千仁を狙っているようだった。魚に正面からにらまれて、千仁の足が数歩、下がる。

「チッ」

 諸泉が舌打ちをしながら、一歩前に出た。魚とひとりで対峙するつもりなのかもしれない。

 玄関まで逃げられればいいのだが、魚から逃れられるとは思えなかった。


 ぐん、と勢いをつけて近寄ってくる魚。諸泉は右手を前にだして、止めようとしている。左手はポケットに突っ込んでいて、何かを探しているようにも見えた。

 魚は諸泉の前で動きを止めたかと思うと、ふたたび動き出した。彼の手をするりとすり抜けて、千仁の目の前に迫ってくる。

「ッ」

 千仁は息を呑んだ。魚を前にしても、はねかえす手段など浮かばないままなのだ。ただこうして、魚に記憶を喰われるのを見ていることしかできないのではないだろうか。

 焦りがこみあげてきた刹那、りぃん、と軽やかな鈴の音がした。音は間近から聞こえてくる。どこからだろうと思ったが、すぐに出所はわかった。


 諸泉がポケットから出した左手に、鈴は握られていたのだ。正確には、どこかの鍵と、鍵に付けられた鈴の音だ。

 軽やかな鈴の音は、続けて響いていた。そのとき、眼前まで迫っていた魚がふと動きを止めていた。鈴の音を嫌がるかのように身をよじり、くるりと向きを変える。


 ふいに、眼前に鮮やかな「何か」が映り込んだ気がした。

 鮮やかな夏の空。はためく部室のカーテン。


 二つの光景をきっかけとして、頭のなかに、次々と映像が流れこんでくるのがわかる。その間にも鈴の音は響いていて、魚は少しずつ夏の空へと姿を消していくのだった。

「……千仁?」

 おもわず額をおさえていたせいか、政志がいぶかしげな声をあげる。心配をさせたくはなかったが、うまく声が出ない。

 仕方なく手を上げて、政志の声にこたえようとする。

「……おい、平気か? 千仁?」

 政志がどう思ったのかは分からないが、千仁をのぞき込むようにしてくる。千仁から見える政志の姿は、ひどく不安そうな、心配しているものに見えた。


 もしかすると、記憶を喰われるまえの千仁も、こんな感じだったのかもしれない。なぜかそのあたりの記憶は不完全なようで、戻ってこないままだ。

 それでも、よくなったのは事実である。誤解させてはなるまいと、千仁は声をあげていた。


「平気」

「だけど」

「ほんとに。今度は記憶、もどってきたから」

「……ほんとか」


 なんとか事実をつたえると、心配そうにのぞきこんできた政志の目が丸くなる。それから安心したように息をついた姿に、心配させていたのだということを改めて思い知った。


 気が付いたときには、あたりを泳ぎまわっていた魚の数もずいぶんと姿を減らしていた。千仁のまえに立つ諸泉は、その場に佇んだまま、己の手のひらをながめている。


 ふと、学寮の入り口に立つ諸泉と那智の姿が、眼前に浮かんだ気がした。諸泉と那智が並んで立ち、誰もいない学寮を見上げている姿。


 これも、千仁が落としてきてしまった記憶だろう。戻ってきたばかりのせいか、いまだ記憶とはなじめずにいる感じがしていた。

「先生!」

 学寮の裏側から、那智の声が聞こえてくる。そこでようやく、ぼんやりとしていた諸泉がはっと肩をふるわせていた。

「こっちだ」

 諸泉が那智がいそうな方向を向いて、よく通る声をあげていた。声を張りあげている訳でもないのに、すっと遠くまで染み渡るように響く。

 声は那智にも届いたのだろう、那智はすぐに顔を出していた。濃い茶色の髪は乱れていて、息はあがっている。諸泉が千仁を探しにきたときと同じように見えた。


「いた……! よかった……! 魚が急に増えてきたから……って、あれ?」

 那智は焦ったような声を上げながら近づいてきて、そしてふと足を止めていた。強くなる太陽の光が降り注ぐ玄関前をきょろきょろと見回している。

 千仁たちは、静かに那智の様子を見守っていた。

「……、ここ、少なくないですか?」

 やがて、まわりを見回した那智が、ようやくそれだけをぽつりと呟いた。那智がそれを思うのは当たり前のことだろう。だが、今起きたことをどう説明すれば、那智に理解してもらえるのだろう。


 千仁が頭を悩ませるまえで、口をひらいたのは諸泉だった。

「……文貴がいた」

「え?」

「この魚、やっぱり文貴が原因らしいぞ」

 諸泉の口から、知らない者の名前が出る。那智はその者の名前を聞いたとたん、こちらへと向けていた歩みを止めていた。

 すっと表情が消えて、那智は静かに諸泉を見上げる。

 ふたりが口を閉ざしたまま、互いの視線を通わせるのを、ただ見守ることしかできなかった。

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