第12話

 政志と並んで防波堤の上までのぼると、遠くに諸泉の姿が見えた。

 諸泉は千仁たちの姿をみとめると、小走りで駆け寄ってくる。

「はぁ、はぁ……いた、良かった……」

 軽く息があがっているところから見ると、どうやら長い距離を走ってきたらしい。諸泉はふたりの前で息をはずませながら立ち止まると、安堵の息をついていた。


「どうしたんですか」

 千仁が問いかけると、息を整えた諸泉が、強い視線を向けてくる。

「どうしたんじゃないよ。君たちね、メッセージぐらいは見てほしいんだけど」

「へっ?」

「あ」


 諸泉に言われてようやく、ポケットに入れたままのスマートフォンの存在を思い出していた。

 慌てて引っ張りだしてみると、画面にはいくつもメッセージが送られた履歴が残っている。

 いつもそうなのだが、ポケットに入れるとメッセージが送られたかどうか、分からなくなってしまうのだ。今日は誰からの連絡も無いだろうと思っていたせいもあって、余計に気がつかなかったように思う。


「良かった……魚が増えてきたから、心配だったんだよ」

 諸泉はそれだけ告げると、千仁たちに背を向けて歩き出した。政志がおとなしく諸泉に付いていくので、千仁も置いて行かれないよう、二人を追いかけていく。

「魚が増えたって……、どういうことですか」

「どうもこうもないさ。昨日よりも学寮にいる魚の数が増えた。それだけだ」

 諸泉は何事もないかのように、それだけを告げる。諸泉の目には表情が浮かんでおらず、何を考えているのかは分からないままだ。


 ただ、諸泉の目はいつもよりも少し赤く見えていた。目の縁もすこしだけ赤い。

 眠れなかったのだろうか、なんてことを考えてしまう。聞いたところで、まともな答えが返ってくるとは思わないから聞かないけれど。

 諸泉の言葉の意味は、学寮に近づくにつれ、はっきりとわかってきた。

 今まで学寮の外にはいないと思っていた魚の姿が、ちらほらと見えるようになってきたのだ。

 相変わらず大きな体の半透明なさかなだ。

 魚の姿が見えるたびに体が震えてしまうが、襲ってくるほどの距離にいないことが、せめてもの救いだ。


 そう、思っていたのだが。

「うわ」

 学寮の玄関が見えるようになってきたところで、千仁は足を止めていた。隣に並んだ政志の口から、げ、と声があがる。

 数歩先を歩いている諸泉も足を止めている。嫌そうな声を上げた千仁たちを振りかえってきた。

「な、増えてきただろ」

「本当ですね。昨日はあんなにいましたっけ」

「いないな。うん、いなかった」


 政志と諸泉がまるで緊張感のないやりとりを交わしているので、自然と緊張していた力も抜けていくようだった。

 今までごく普通の朝の光景だと思っていたのだが、気がつけば、空の色が少し変わっているように感じられる。魚の数も増えていて、大きな魚からイワシのような小さな魚まで、いくつもあるようだった。


 この光景は、そう。空の水色と相まって、まるで――。

「水族館みたいだな」

 千仁が思ったことを諸泉が口にしていた。諸泉はぼんやりと空を見上げている。

「たしかに水族館みたいですけど……、これ、どうします?」

「どうしようかね……」

 政志の言葉に、諸泉はぼんやりとした声をあげるだけだ。

 空を見上げているようすも困っているというよりかは、ただぼんやりとしているだけのように見える。


 諸泉は、この魚たちに何を見ているのだろう。

 薄い背中は、何も語ってはくれない。


「とりあえず、俺の後ろに……」

 諸泉がため息をつきつつ、言いかけたときだった。

 ちょうど玄関のまえ、魚たちがいない、ぽっかりとひらけた場所に、人がひとり、立っているのだった。

 この場にいないのは那智だけだ。だからそこに立っているのは那智だけだと思っていたのだが、遠目からでも格好が違う。

 那智よりもすこし薄い茶の髪。優しげにも見える風貌は、那智よりも年上にしか見えない。


 あれは、一体、誰だろう。

 千仁の疑問を破るようにして、諸泉の声がぽろりと落ちてきた。

文貴ふみたか……」

「え?」

 風が強く吹けば消えてしまいそうな声音だった。ただ、その時だけ風が吹くこともなく、魚が泳ぐだけの静かな場所だったので、千仁にも聞こえたのだ。

 誰の名前なのだろう。訝しく思う千仁のまえで、男の姿はふっと消えていく。


 男の姿が見られたのは、ほんのわずかな間のことだった。それこそ幻を見ていたということで、片付けられてしまいそうなほどの。

 だが、幻として片付けてはいけないような気がしてならなかった。千仁が横目で政志を見ると、同じことを思ったのか、政志もちらりと視線を投げてくる。

 これは、幻ではないのだ。

 千仁がはっきりと思ったとき、近くでゆらりと空気が揺れたような気がする。千仁の身体は思わず、震えていた。

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