第二章48『ニヒ』

 翔が振り返った先にいたのは、暗く寒い基地の廊下に一人佇む自らの相棒、フィーリニであった。


「……なんだ、フィルか。驚かすなよ」


 突然響いたその声に内心驚いていた翔は、そう自らの相棒に言った。その心拍数は先程急に声をかけられたことにより跳ね上がっていたが、翔はその状況に内心安堵していたのだった。


 ──さっきまで何の音もしてなかったってのに。幽霊か何かかと思ったぜ、畜生。


 翔はあの時、突然背後から声をかけられた時に唯ならぬ恐怖を感じていたのだった。それは何の物音も聞こえない状態から突然話しかけられたからでもあり、その時翔が背後に感じた気配が並々ならぬものだったからでもあった。だからこそ振り返った先にいたのがフィーリニであることに翔は最初は安堵し、次第に恐怖していったのだった。


「ああ、そういえばフィルヒナーさんから聞いたぜ。あのあと目を覚まして代理で遠征隊やってくれてたんだってな。ありがとな」


 翔はその場を繋ごうとフィーリニにそう言った。しかしフィーリニはその翔の言葉に返事をすることはなく、ただただじっと翔を見つめるばかりであった。


 ──?


 そのフィーリニの奇妙な様子に、翔はどこか違和感を抱く。しかしその時にはまだ翔の心に恐怖の色は混ざっていなかった。翔が次第にその状況の異常さに畏怖を抱き始めたのは、その直後翔がとある事実に気付いた時のことだった。


 ──あれ? そういえば、


 そうして翔は改めて眼前に立つフィーリニの姿をまじまじと見る。その姿には翔は何の違和感も感じられなかった。


 ──それこそおかしいな。だったらどこがおかしいんだ? 見た目もフィルそっくりだし、声もしっかりフィルのものだし……


 と、そこまで思考を巡らせて翔は気付いた。その場所で、その状況で、自らの相棒が平然のようにということ自体がおかしいということに。


「──っ!」


 翔は反射的にその少女から距離を取る。少女は翔を追ってくることはしなかったが、そうして翔が少女を避けたことに少し悲しんでいるようだった。その表情の機微すらフィーリニにそっくりなその少女に、翔は思わず恐怖で震えながら問いかける。


「……お前は、フィルじゃないな?」


 そうして問い掛ける翔はようやく思い出していた。自らの相棒がきちんとした言葉を発するのは、翔が『時間跳躍』を使った時に見る夢の中のみであるということを。それもその夢の中で出会う少女は『氷の女王』を名乗るフィーリニに似て非なるものであり、翔はその少女の正体の正体を知らなかったのだった。


「……今更だけど、『フィーリニに似て非なるもの』って名前じゃ呼びづらいからよ。似て非なるもの、略してニヒって呼んでいいか?」


 翔はその不気味な状況を振り払わんと、必死にそうして少女に語りかける。翔のその言葉に少女は目を丸くした後、再びその表情を少し前のような無機質なものに戻して言った。


「構いませんよ。私のことは、カケルの好きなように呼んでくれて」


「そうか。んじゃお言葉に甘えて、ニヒって呼ばせてもらうわ」


 そうして翔は軽い口調でそう言いながらも、その頭は必死にその状況を打破するための思考を繰り広げていた。


 ──クソ、なんで現実世界ここにニヒがいるんだよ! あの夢の中にしか現れないとか、そんな感じかと思ってたのに……!


 そうして苛立ちと共に思考を回す翔であったが、その前提条件がまず希望的観測に基づいていたものだったのかもしれない。そのフィーリニ似の存在、ニヒは何もあの夢の中にしか居られないなどという設定ことは言っていなかったのである。『ニヒ』は夢の中にしか現れない。そんな論理は、翔の勝手な推測に過ぎなかったのだった。


 ──今はそんなことを考えてる暇もない。それよりも俺は今、この状況をどう打開するかに頭を回すべきだ。


 そうして翔がその状況を危険視するのは、以前聞いたニヒのある言葉が脳内を巡っていたからであった。


『強いていうなら、私はあなた達がいうところの『


 ──あの言葉が正しけりゃ、俺は夢幻ユメマボロシなんかじゃない現実世界で、その『氷の女王ラスボス』と一人で向き合ってる訳か。


 翔はその状況に心底怯えていた。それまでも翔は幾度となく『ニヒ』と二人きりで会ったことはあったが、それはあくまであの夢のような空間においての話だった。もちろんあれがただの夢ではないだろうことは翔にも分かっていた。分かっていたが、それでも少なくともあの夢の中では、翔は命の恐怖に怯える必要はなかった。


 ──けど今は違う。多分ニヒにとっちゃ、俺なんか簡単に殺せる雑魚ザコなんだろうな……。


 翔は彼我の実力差をしっかりと理解していた。相手がこの世界に永遠の冬をもたらした『氷の女王』であるならば、翔の命などまさに風前の灯に過ぎない。目の前の『ニヒ』は今のところ翔に危害を加える様子はないが、いつ彼女の気が変わるとも分からなかった。端的に言えば絶体絶命なその状況で、翔は必死に自らの死なない方法を探すため思考を回していたのだった。


 ──さっきも会話は成立してたし、一応話が通じる相手ではあるよな。だったらやっぱり交渉が安牌アンパイか。けど、話が通じるからこそ一言一句気を付けて、万一にも失言はしないように……。


 そうして翔は覚悟を決め、その交渉を実行に移さんとする。が、その思考も突然発せられたニヒの言葉によって遮られることとなった。


「別に、今すぐ貴方を殺したりですとか、そんな物騒なことはしないので安心してくれていいですよ。私は今日、提案をしに来ただけですので」


 その翔の心を読んだようなニヒの言葉に内心安堵しつつも、その言葉に翔は疑問を覚える。


「……提案?」


「はい。先程言いましたよね? 『もっといい選択肢がある』と」


 そのニヒの、先の自らの発言を引用する言葉に翔は訝しげな顔をする。その提案というのが不透明であったこともその理由の一つであったが、何よりも翔は、そのニヒの言葉が信じられなかったのだった。


「『もっといい選択肢』ってことは……。


 俺が未来に逃げる、それよりもいい選択があるってことか?」


 それは翔には到底信じられないことであった。先程翔がふと思いついた、『時間跳躍』を使って顔見知りのいない未来に飛ぶという発想は、突飛なものであるが翔にとっては理想的とも言える選択肢であった。それを上回る作戦があるなどということは、翔にはとてもじゃないが考えられなかった。


 その翔の問い掛けに、ニヒは平然として答えた。


「ええ、ありますよ。この悪夢のような状況をこの上なく理想的に解決する、たった一つの方法が」


 そのニヒの言葉に、翔は思わずつばを飲み込んだ。先に示した通り、翔には未来への逃亡以外にこの状況を突破する妙案は思い浮かばなかった。しかし、目の前でそう話すニヒの顔にはどこか確信の色が見えた。そして何よりも、それは『氷の女王』を自称する存在の言葉である。信じてみる価値はあるかもしれない、と翔はその提案を聞くことを決心する。


「……それで、その方法ってのは?」


 翔は固唾を飲んでニヒにそう問いかける。その翔の深刻そうな様子を見て、ニヒは少し可笑おかしそうにして答えた。


「単純な話ですよ。この場から逃げることに関しては私も賛成です。ですがその逃亡先は、別に未来でなくてもいいのでは?」


 そのニヒの言葉に翔が再び訝しげな顔をすると、ニヒはそのはぐらかすような口調をやめ、単刀直入にそう言った。



「そうですね……。簡単に言えば、、それだけの話ですよ」



 そのニヒの唐突な言葉に、翔は思わず自らの耳を疑ってその言葉を聞き直す。


「過去に、逃げる……?」


「はい。ああ、逃げるという表現はあまり適切ではないかもしれませんね。過去に行って全てをなかったことにする、が近いでしょうか」


 そうして少し自分の言葉を訂正したニヒに、未だその提案の真意をはかりかねている翔は三度みたび不思議な顔をする。その翔の様子を見て、ニヒは一つため息をついてからその説明をし始めた。


「……自らが未来に飛ぶ、もしくは何かを未来に飛ばす貴方のその力。そんなものがあるなら、それと正反対の、が存在していてもおかしくはないと思ったことはありませんでしたか?」


「──っ!」


 そのニヒの言葉に、ようやくその存在の真意を悟った翔は思わず息を呑む。そしてそんな翔の戦慄した顔を見たニヒは、その顔に微かな笑みを浮かべて言った。


「そうです、ご察しの通り私がです。


 


 その驚愕の告白とともに、事態は急転直下、人智を超えた未知の領域へと向かっていったのだった。

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