第二章47『夜』

 ──頭が、霧にでも包まれたみたいだ。


 アンリの話にそう呆然とする翔は、頭の奥の方でふとそう思った。


 ──頭がかち割れそうなのに、妙にすっきりしてる。今にも泣き出しそうなのに、頭だけはやけに、冷静だ。


 そうして翔はその不安定な思考に辟易しながらも、その思考を続けた。


 ──ただ一つ、これだけはハッキリしてることがある。胸が、苦しい。


 翔は自らの身体のその奇妙な状態のことを、もう理解しわかっていた。それは翔がその一日だけで幾度も経験したものだった。翔はもう気が付いていた。その不快な思考が、苦しみが、すなわち『罪悪感』というものに他ならないということを。


「……俺は、こんなことを望んだわけじゃ……っ!」


 その罪の意識を振り払わんと、翔は必死にそう『何か』に弁解する。その翔の懺悔は誰に宛てたものでもなかった。それは自らの悪行を認め、誰かに許しを乞うためのものでもなかった。


 それはただ翔自身が救われるための言い訳であった。それはこの上なく身勝手で、最低で、劣悪な、英雄ヒーローあるまじき行為だった。


「……無様ブザマですね」


 そうして必死に自己肯定をする翔を見下して、アンリはそう呟く。そのアンリの呟きに、翔は思わずその感情を怒りに変貌させて言った。


「……は? お前今、何て……」


「無様ですね、って言ったんですよ。だってそうじゃないですか? 私の発明品と多少の幸運で自分が強くなったと錯覚したのかは知りませんケド、自分勝手に未知の『新種』に突っ走っていって、結果失敗して、遠征隊を未来に連れてきて。


 そして挙句の果てに、自分のその身勝手さで起こった悲劇を前にして、『俺は悪くない』だなんて……」


「うるさい!」


 そのアンリの言葉を遮り、翔は思わずそう叫ぶ。静かな基地の廊下にその叫び声がしばらく響いた後、翔は再びその怒りをぶつけだした。


「お前に何がわかるんだよ! 基地で安全に、ぬくぬくと暮らしてやがるお前なんかに! 俺は遠征隊なんだぞ! 無様だ何だほざきやがって……」


「あーはいはい。それはそれは、ドーモすいませんでしたね」


 その翔の怒りを片手でひらひらと振り払って、アンリはそう気だるそうに言った。その口調には謝罪の意などは微塵も見当たらなかった。その相手を小馬鹿にするようなアンリの口調にまた翔がその声をあげようとしたその時、アンリが冷徹な声で言った。


「……何を甘えてるんですか」


「──っ!」


 その先程とは別人のような声に、翔は思わず押し黙る。アンリはその目に光を宿さないまま、その冷徹な声のまま、翔にその事実を突きつけていった。


「カケルさんがこんな状況を望んで作り出したにしろそうじゃないにしろ、責任がカケルさんにあるのは明白ですよね? それなのに何をあーだこーだ言ってるんですか。そんなことしてる暇あったら、ちょっとでもその罪を償ってくださいよ」


 翔はそのアンリの言葉に何も言い返すことが出来なかった。言い返せるはずもなかったのだ。アンリが言い放ったそれは正しく正論であり、翔が先程まで発していたのはただの我儘ワガママで悪辣なな『言い訳』である。どちらの主張が正しいかはもう翔にも分かっていた。だからこそ翔は、もう何も言うことが出来なかった。


「……あー、じゃあついでに。遠征隊様エンセータイサマでおられるカケルさんにはもう知ってることでしょうけど、一応改めて言っておきますね」


 その皮肉たっぷりのアンリの言葉に、翔は項垂れていたその首を必死にあげる。するとアンリはその自らに向けられた翔の顔に向かって指を突き立てて、変わらず冷徹な声で言った。


「……もう基地ここには、貴方アナタの味方なんて一人もいませんよ。


 遠征隊の人達は大方身勝手なカケルさんのあの振る舞いに多少はイラついたでしょうし、何より無理やり三年後の世界に連れてこられたんですからね。隊長タイチョーは特にお子さんとのことでまた色々苦しんでるみたいですし。彼らに助けを求めるなんて不可能です。


 基地の人間にもカケルさんを守ってくれる人なんてほぼいません。遠征隊がいなかった三年間、本当にその日の食料を得るのも大変でしたからね。あの地獄のような日々を経験した人達が、その元凶たるカケルさんをゆるすわけないじゃないですか」


「……っ!」


よーやくこの状況がわかりましたか? カケルさんは罪を償おうにも、もう


 そのアンリの冷徹な言葉は、また翔の心を容赦なく掻きむしっていった。翔はまたその胸の苦しみが強くなっていくのを感じた。しかしそんな翔の苦しみなどつゆ知らず、アンリは話を続ける。


「……そもそも、今の基地にカケルさんの話をマトモに聞いてくれる人なんてどれだけいるんでしょうかね。もしかしたら、謝罪の言葉さえも受け取ってくれない、なんてこともありそうですけど」


 そのアンリの言葉に、翔は改めてその目に絶望を浮かべる。アンリの言葉は何も新しい事実を言っている訳でもない。特段苛烈なことを言っている訳でもない。そのアンリの言葉はただひたすらに、その現実を突きつけるものに過ぎなかった。だからこそ、今の翔にはそれが耐えきれなかったのだった。


「……ぁ……ぅ……」


 思わず嗚咽を漏らした翔の目からは、熱いしずくが垂れていった。その涙を見て、もう何も言うことなどないと悟ったのか、アンリはその場を去っていった。


「……ま、精々せーぜー頑張ってくださいよ。応援はしませんけど、見守ってはいますから」


 そうして手を振りながら歩いて去っていくアンリを見送っても、翔はすぐにその場から立ち上がることが出来なかった。


「……俺は、一体何をすれば……」


 その翔の絶望が深まるのにつれて、結局翔が何の行動も起こせないまま、時計の短い針が次第に真上に近付いていった。


 そうして翔はその『夜』を迎えた。それは基地に来てから初めてという程の、寒く苦しい夜であった。



 ********************



「俺は一体、何をすればいい」


 もう何度目かもわからないその質問を、翔はまた自分に投げかけた。その目に映るのはひ弱な自らの手と、無機質なカプセルの天井のみであった。翔はあの後しばらくしてからなんとか自分の身体を動かし、なるべく基地の人間の目につかないように自らの寝床カプセルに籠ったのだった。一人で狭い場所に居れば少しは思考も落ち着くかもしれない、と思ってのことだった。


 ──実際は、そんなことなかったな。寝れもしないし、頭ん中は堂々巡りするばっかだ。


 翔はもう何時間そうして同じ自問をしているか分からなかった。ただ脇に置かれたその時計が指す日付が、もう既に事情聴取のあった翌日のものであるのを見るに、どうやら翔がそのカプセルに籠ってから五、六時間は経ったらしい。そんなことも最早どうでもよく思えるほど、今の翔は疲弊しきっていた。


 ──寝ようにも寝れない。何を考えても、何も思い浮かばない。


 翔がその状況で少しでも眠気を感じていたならばまだ救いようはあったかもしれない。人間として褒められた行為でなかったとしても、問題など先送りにして夢の世界に逃げることが出来るのだった。しかし非常な程に翔は寝ることも出来なかった。時計が指すのはいつもであったらもう既に翔は寝ている時間である。それでも眠気が全く来ないということは、それだけ翔を取り巻いているその感情が翔の気分を最悪にしているからに違いないだろう。


 ──罪悪感、だなんて今更笑えるな。笑えねえけど。


 そう考えると翔の口からは乾いた笑いが出た。それが苦笑であったにしろ、こんな状況でも自分は笑うことが出来るのだと、翔は改めて自らの図太さに感激し、その無神経さに吐き気を覚えたのだった。


 翔はもう随分前に、あの遠征でフレボーグに庇われてから、気付いていたのだ。悪いのは自分だと。そして同時に、その状況がもう既に取り返しのつかないほど壊れきってしまっていることにも。


 ──なのに俺は、目を背け続けてきた。これは、そんな俺への罰だ。


 そう考えた翔の思考は、やはりまとまらないままであった。そうして改めて現状をくらい面持ちのまま分析した後、翔の思考はやはりその一点に落ちていった。


 ──


「──っ!」


 再びその自問に陥った翔は、苛立ちと共に思わずその手に握っていた枕を辺りに振り回し始めた。そのカプセルは翔の寝床であるのと同時に、唯一の翔の自由にできる空間パーソナルスペースであったため、あちらこちらにその私物が積まれていた。振り回された枕によってそれらが薙ぎ倒されていくのを見ながら、翔はそうして暴れても全く発散することの出来ない自らの苛立ちに、一つ深呼吸をして呟いた。


「……何やってんだ、俺」


 そう冷静になった翔は、その散らばった寝床をよそに、その枕をその場に置いて、カプセルから出て基地を歩き始めた。


 ──寝床あそこにいても、ダメだ。に、行こう


 そうして翔は、せめての気晴らしのため自らのお気に入りの場所へと向かい始めた。そこは基地の端の方にある、翔にとってはお馴染みの癒しの空間オアシス、休憩所であった。


 深夜の基地の雰囲気は昼間と違いとても閑散としており、不気味であった。節電のため一定間隔でしかけられていない電灯もその不気味さを助長しているように思えた。その少ない光源のため生まれる闇と、冷えきった空気とが、翔の感覚器官に否が応でも『不快』の二文字を伝えていく。


 ──なんか、本当に静かだな。俺以外のみんなが、居なくなっちまったみたいだ。


 ふと翔の頭にそんな考えが浮かぶ。その恐ろしすぎる思考のせいか、夜中になりより一層下がったその気温のためか、翔は思わず身震いをする。それでも必死に奮い立って翔はその休憩所を目指すが、そうして奮起した翔の『熱』も、基地のひんやりとした床にあっという間に吸収されていく。しかし翔はそれらの感覚を必死に無視し、その休憩所を目指し歩き続けた。


 そうして歩き出した翔は、再びその問題に頭を悩ませ始めた。


 ──『もう基地ここには、俺の味方なんて一人もいない』、か。


 その脳裏には、半日ほど前にアンリに聞かされたその言葉が浮かんでいた。彼女のその言葉は紛れもない事実であった。もう基地には翔の味方をしてくれる人はおろか、話を聞いてくれる人すら居ないに等しい。アンリのその言葉を聞いてから、翔はもうそうとしか思えなくなってしまっていたのだった。ただ一人の、その男の存在を忘れて。


「けど、じゃあどうすりゃいいんだよ……」


 その一人の存在を忘れた翔は、絶望にまみれた目でそう呟く。翔の話が誰にも届かないとしても、翔が罪を償わない限りその状況が変わらないのも事実であった。だからこそ翔は悩んでいたのだった。しかしやはりどれだけ悩んでも答えなど出ることはなく、翔は思わずその言葉を呟いた。


「……


 それは翔の、どうしようもない本音であった。翔はもうその状況にうんざりしていた。翔は頑張ったのだ。にも関わらず翔の望みに反してこのような非道な状況は作り上げられ、翔の周りの人間は翔に失望し、忌み嫌い始めた。


 翔はあの遠征以来見えなくなっていたその鎖が、再び自らの足に付いているのを感じていた。しかしそれは以前のものとは少し違っていた。その鎖はもうどこにも繋がっていないため何の拘束力も持たず、そして何よりも、その鎖はあちこちが腐り果てていたのだった。


「……俺への期待はもう無くなった、ってか」


 翔はその鎖を見つめてそう呟く。『新種』から逃げようとした時翔を止めたその鎖の正体を、翔は周囲が自らにかけた期待だと推測していた。だとすればその鎖が腐ったということが表すことは明瞭である。翔は周囲の期待や信頼を失ったのだ。代わりにありったけの憎悪と、失望を与えられて。


「これで俺も晴れて自由の身、ってか。


 ……笑えねえな」


 その千切れた鎖を見ながら翔はそう茶化してから、ボソリと呟いた。それでも晴れない自らの心の闇に、翔は心の中で呟く。


 ──まったく、どんな皮肉だっつーの。


 翔のその呟き通り、その状況はあまりにも翔にとっては嫌味シニカルであった。確かに翔を縛り付ける期待の鎖が錆び落ちた今、翔は自由に動くことが出来るかもしれない。しかし今更そんなことをしても意味などない。翔がどれだけ奮起しても、どれだけ走り回っても、失われた信頼くさりはそう簡単に蘇らないからだ。


「……それに、今更逃げるったってどこに逃げるんだよ」


 その鎖はかつて翔が戦場から逃げようとした時翔を拘束したものだった。それが無くなった今、翔はこの苦しい状況からもあるいは逃げることができるかもしれない。しかし翔はそんなことがなんの意味も持たないことを知っていた。もう自らには逃げ場すら残されていないのだと知っていたからであった。


「……遠征隊を辞めて基地に居座ることにしても、基地の人間は俺を許してくれない。基地から逃げて外の世界に行ったとしても、『俺』は俺を許してくれない」


 翔の足に巻きついたその鎖は、未だ完全には腐り落ちていなかった。それは僅かながら翔への期待が残されていることの暗示にほかならない。ならばその期待は誰が、と翔が逡巡した結果出た結論は、であった。


 ──『俺ならきっとどうにか出来る』『俺ならまだ戦える』だなんて、それこそ笑えない。最後の最後に、俺を許してくれないのは俺自身ってか。


 それはあの輝かしい日々を経験した自分が自分にかけた期待。それは自己愛者ナルシストとは少し違う、自信家である翔が犯した最大のあやまち。翔はキラを助け出したあの一件で、自らに自信を持ってしまっていたのだった。少量では薬になり得るその自信というものも、量が過ぎれば過信という毒になり得ることは翔も分かっていたはずだった。しかし翔は勘違いをしていた。自らは強いのだと、強くなったのだと。結果、『自分は出来る』という過信を招いた。


 ──形だけでもまだこれがある以上、基地からも逃げられない。だったらもう、逃げ場なんて……


 そう考えてから、翔の頭をとある言葉がよぎった。


『俺には、その触れずに発動する『時間跳躍』とやらが失敗した云々じゃなくて、お前が『新種』を怖がってだけに感じるけどな』


 それは今翔が最も考えたくなかった、翔を嫌う男の言葉であった。にも関わらずその言葉が脳裏に浮かんだのは、その言葉の中に翔の新たな『逃げ場』が示されていたからであった。


「……そうだ、


 それは常人では考え付きもしないであろう、あまりにも突飛な発想であった。しかしその発想は確かに常軌を逸していたが、翔のその状況を解決するのに、何の妨げもないように思えた。


 至極単純な話なのだ。今の世界が苦しいならば、今翔を取り巻く環境が耐えられないのならば、。人の寿命など長くても百年程度である。そんな未来にもこの基地がまだ残っているかは分からないが、その未来に翔が飛ぶことが出来れば、少なくとも翔を責める人間はこの世のどこにも居なくなる。


 ──それにそもそも俺の場合、基地があろうがなかろうが関係ない。


 翔は外のガスに対して、ほぼ無制限と言っていいほどの耐性を持っていた。ならばこの基地に来る前のように、気ままに猛吹雪の世界で暮らすのも悪くないかもしれない、と翔は考える。


 もちろん基地での生活に比べて外での生活が格段に危険で、大変なものであることは翔は分かっていた。しかしこの世界に来たばかりの時と違い、翔にも多少の知恵や武力は付いてきた。雪兎シュネーハーゼや持ち前の頭脳をもってすれば、ある程度長期間外で安全に暮らすことも不可能には思えなかった。


「……ちょっと試しに考えてみたけど、考えてみればみるほど欠点デメリットが見当たらないな……」


 その言葉を発する最中、翔の胸がどこかちくりと痛んだが、そんなことは気にせず翔はそう分析をした。ひょんな事で頭をついたその案だが、よくよく考えると存外翔にとってそう悪くないもののように思えた。


「……まだやれば出来るじゃんか、俺。未来に逃げるか。結構いい選択だとは思うけど……」


 そうして翔が自らの頭脳に改めて感謝し、そしてその後に何かを続けようとしたその時──


 その翔の耳に、一つの声が響いた。



「いえ、もっといい選択肢がありますよ」



 その聞こえてきた声に、翔は思わず後ろを振り向く。


「──っ!」


 振り返ったその視界に入ったのは、暗い基地の廊下に一人佇むフィーリニの姿であった。


「久しぶりですね、カケル」


 そうしてその夜は未だ更けることなく、むしろますます深まっていくのだった。

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