第二章21『一歩』
黒、黒、黒。ただ虚空のみが存在するその空間で、一人の少女が佇んでいた。
「……まったく、本当に
その声は抑揚がないようで、その実どこか弾んでいるようだった。まるで、旧友の懐かしい姿を久しぶりに見ることが出来たことを喜ぶかのように。
「……いつも、無茶ばかりするんですから」
しかしその声は同時に寂しそうにも聞こえた。その獣の少女のような存在は複雑な気持ちを抱えていたのだった。喜び、悲しみ、怒り、憂い。しかしそれらのどれよりも大きく、その存在は『愛』を抱えていた。それは自らがかつて一生を共にした、その少年への愛だった。
しかしその時ばかりは、その愛と同じくらい憂いも募っていた。今見送った少年がまた力を使ったらしいと分かったからだった。
──カケルのあの力は、その力に対を成す
その存在は本当に翔のことを心配していたのだった。自らも持つその力がどれだけ危険なものであるかを知っていたからであった。
「……本当に、知りませんからね」
その存在の憂いは、少年がこの先ぶち当たることになるであろう壁のことを知っていてのことだった。
「私は、忠告しましたからね。カケル」
その声は静かに、少し悲しそうに、その虚無の空間に響いた。
********************
一歩。踏み出してからその靴の底を踏み切って、
違和感に気付いたのはその大跳躍の最中だった。最初に感じたのは脚に残る鈍い痛み。その後に感じたのは肌を切る風の僅かな乱れだった。
「──!」
その瞬間、翔は確信していた。その脚の痛みか、はたまた少しの焦りで体勢が崩れたか。何が原因かは分からないが、
そしてその確信通り、翔の身体は基地に向けた放物線から大きく外れ、その手前一メートルほどに頭から転げ落ちた。
「……くっそ……!」
めまぐるしく回る視界になんとか耐えながら、翔はそう悪態をついた。半ばはだけた防寒具の隙間から雪が染み込み、翔の身体に僅かな冷たさを与えていた。しかしその冷たさをも無視して、翔は前へ前へと、基地に手を伸ばそうとする。
しかし、翔の大跳躍は一歩足りなかった。翔が起き上がるより前に、その背後で拳銃を構える音がした。
──まずい、
瞬間、翔の頭に浮かんだのはそんな諦念だった。
──基地まであと少しだってのに……! あと一歩、足らなかった……!
今や翔の身体は基地から一メートルほどの場所に投げ出されていた。立ち上がろうとすれば
──クソ、ここまで頑張ったってのに……!
そこがどれだけ
──これじゃ、これまでの全て、無駄に……!
翔はこの先の未来を想像し、顔を苦悶に歪ませた。背後の敵の様子は伺うことが出来ないが、もう二度と翔が彼らの裏をかくことなどは出来ないだろう。二重の囮作戦から始まり先程の『時間転送』に至るまで、翔は文字通り死力を尽くして彼らを欺き基地に近付いたのだ。もう彼らは決して翔に対して油断などしてはくれない。その代わりに翔に投げかけられるのは、油断のない純粋な殺意であった。
「ぐっ……! あと、少し……!」
無駄だとは分かりつつも、翔はその手を必死に基地へと伸ばす。しかし、やはりその手は届かない。それはつまり、翔のこれまでの努力はすべて無駄になるということであり──
「くっそがァァァァァ!」
伸ばした手を思いっきり雪原に叩きつけて、翔は感情の昂りに任せてそう叫んだ。その目は目の前の現実を見たくないがために閉じられ、閉じた目からは僅かに雫が滲んでいた。そうして翔の冒険譚は無駄に──
「──無駄になんか、させないよ」
瞬間、響いたその声に、翔は閉じていたその目を開く。
するとその目に映ったのは、翔達に背を向け敵に向かい合う、
「よくやったな、カケル」
だがその『声』だけは、翔の前方、基地の方から聞こえていた。その声の主は翔の頭を優しくポンと叩いたかと思うと、その遠征隊の列に加わった。それと同時に、その場にかすかな
「お前が繋いだこの『一歩』は、決して無駄なんかじゃないよ、カケル。俺らが、無駄にさせない」
そう言って笑うのは、遠征隊の隊長の元二であった。翔が辺りを見ると、翔を撃たんとする男達に対抗するかのように、その場には翔を守るように遠征隊が集結していたのだった。
しかしその中に金髪の『先輩』がいないことに気付いた翔は、同時に元二と同様遅れてその列に加わらんとする足音に気付いた。
「……ったく。迷惑かけやがって」
それは紛れもなく翔を嫌い翔が嫌う男、ランバートであった。彼は気だるそうに肩を鳴らしながらその遠征隊の列に歩いていく。
「それに
そのランバートの言葉は、翔が洞穴での包囲を抜ける時に敵に向かって吐いた
──あ、そういえば通信が……。
翔は顎のダイヤルを触る。その通信は全開となっていた。つまりは翔のこれまでの言動は遠征隊に筒抜けであった訳だが、これはいつもの翔の
『……フィーリニちゃんをそちらに向かわせています。彼女にはゲンジさんのマスクを付けてるので、カケルさんの居場所はいつでも把握できます。だからカケルさんは通信を全員に繋げた状況で、ひとまず逃げ回ってください』
翔がダイヤルを全開にしていた理由。それはこの逃走劇の発端となった
しかし、それは同時に翔にとって
「……大言壮語はもっと実力付けてから言うんだな。
ある意味では鼓舞とも取れるそのランバートの言葉に、翔は小さく頷いた。
「……さて、と」
翔がそうしていると、遠征隊の列の中心にいる元二がそう話し始めた。
「この際、お前らの
そうして元二はその指で男達を指して続けた。
「……もし今後も、
そうして元二は、その目で厳しく男達を睨んで言った。
「……来いよ、
その元二の声はかつてないほど低く威圧感のあるもので、思わず翔も身震いする。
その元二の言葉に、男達はたまらず戦意を喪失したようで、何も言わずに去っていった。
「……終わった、のか……?」
そのなんとも呆気ない幕切れに、翔はそう呟く。翔があれだけ苦戦した相手を
「ああ、終わったさ、すべて。改めてお疲れさん、カケル」
その翔の呟きに、元二はそう返す。元二の口からその言葉を聞いた途端、改めて翔とキラの逃亡劇が成功に終わったことが翔にも実感させられた。それと同時に、それまでピンと張られていた翔の緊張の糸は、あっという間に緩んでいき……
「……あ」
元二がそう呟くよりも一瞬早く、翔は力なくその雪原にうつ伏せになる形で倒れた。
「ちょっと隊長、カケルは大丈夫なんすか!?」
その様子を見ていて思わずそう声を出したヒロだったが、元二はそれに笑いながら答える。
「多分大丈夫だろ。きっと疲れが溜まってただけさ。何せ、ここまでキラを連れてきてくれたんだからな」
そうして元二は、スヤスヤと健やかな寝息を立てる翔を見て、微笑んで言った。
「……お疲れさん、カッコよかったぜ?
その元二の言葉と共に、そうしてその
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