第一章21『敵』

 元二のその報せを聞いて、翔は改めて気を引き締める。またあの、猛獣が跋扈する猛吹雪の世界に旅立つのだ。もちろん以前とは違い仲間がいる。しかし油断してはいけない。あの壮大な自然の前では、それは命取りになる。


 と、そんなことを思っていた時、元二がこちらに歩み寄って来て、翔に耳打ちした。


「あと、ヒナがお前らに用があるってよ。二人で内密に『初めて会った場所』に来てくれ、だとさ」


 ヒナ、というのが誰を指すのか翔は一瞬考えを巡らせたが、恐らく文脈から捉えてもフィルヒナーの事であると推測した。そして内密に、ということから事の重要さも瞬時に理解し、翔は元二にこくりと頷いた。


 部屋の隅で明らかに重そうなダンベルを振り回しているフィーリニに声をかけ、トレーニングルームを出る。『初めて会った場所』というのは、恐らくあの地下牢のことだろう。


「……さて、困ったぞ」


 フィルヒナーが暗示した場所は分かった。しかしそこまでの道のりが分からない。しかしそれは無理もないだろう。このスルガ基地というところは、まるで迷路のように入り組んだ場所であるのだ。おまけに目印などない。翔は最低限トレーニングルームと寝床の往復の道しか知らないため、かつて囚われていた地下牢への行き方は知らないのだ。


「……最悪『外』から行くか?」


 ここから地下牢への道筋は分からないが、『外』から地下牢への道筋は、『氷の女王』戦の直前に把握済だ。あの猛吹雪の世界には極力出たくないが、彼女フィルヒナーの約束を破ることの方がまずい。翔が仕方なく覚悟を決めたその時、


「……カケル」


 後ろから声がした。振り返ると、背後の少しだけ開かれた扉から、フィルヒナーの顔が覗いていた。


「!?」


 突然の自体に叫び声をあげそうになるが、それをフィルヒナーの鋭い視線に阻まれる。


「……静かにしてこちらに来い。あの集合場所はフェイクだ」


 そのフィルヒナーの言葉を聞き、どうやら本当に重大なことらしいと翔は悟り、周囲を警戒してからその部屋に入った。


 部屋の中は味気なく、どうやら物置のような空間のようだった。雑然とした部屋だが、足の踏み場くらいはきちんとあるようだからどこぞの少女の部屋よりも整頓はされている。二人がその部屋に入り、扉を閉めたのを見届けてから、フィルヒナーが話し出した。


「……すまないな。話す内容が内容のため、念には念を入れさせてもらった」


「いいっすよ。それだけ重要なことなんすよね?」


 遠征隊のトップである元二を介しての伝言に、その集合場所をフェイクとして別の場所で集まる。ここまで厳重に警戒するということは、そこで話すこともしれているというものだ。


「……ああ、とても重要なことだ。

 お前の『敵』について、のな」


 その言葉に翔は眉をひそめる。が、気にせずフィルヒナーは話し続けた。


「……今回の遠征に関して、妙な動きが基地内にある。そしてそれが、新入りである貴様のものだと予想は付いている」


 まだフィルヒナーの話が掴めない。翔が怪訝そうな顔をしていると、フィルヒナーが一つため息を付いてから「簡潔に言えばこうだ」と前置きしてから、こう言った。


「……お前は狙われている」


 その予想外の言葉に翔は目を見開く。


「狙われてる…?」


「そうだ。原因は、推測できるか?」


 フィルヒナーにそう言われ、逡巡の後翔は結論を出した。


「……俺の体質……!」


「恐らくそうだろう。初めて貴様を見つけたあの時の遠征隊のメンバーの誰かが口外をしたと思われる。貴様の素性が知れてからは箝口令をしいていたのだがな」


 翔の、屋外で無制限に活動できる身体。確かにそのことが知れ渡れば、その性質を悪用するような奴らが出てくるのは明白だった。


「……元々我々の敵は『氷の女王』や外の獣達だけではない。『氷の女王』の襲来によって我々が外に出れないことを利用して、周囲の国々、特に北国などが領土拡大を図っているのだ。


 貴様の話に登場した『防護服』は、恐らくこいつらのことだろう」


 翔が以前遭遇した『防護服』。武器を携え、凍気フリーガスを使えていたあたり只者ではないとは思っていたが。どうやら内憂外患、翔達の『敵』は想像以上に多いらしい。


「そのため今度の遠征ともども、貴様もマスクを付けて外に出てもらう。フィーリニに関しては『人獣』はガスへの耐性が基本的に高いため怪しまれることはないが、貴様の『体質』のことがこれ以上広まると厄介だ。マスクの数は限りあるが、仕方ない。


 しかしもうその事実が知れ渡ってしまっている可能性もある。その場合、基地から離れる遠征時に相手は仕掛けてくるはずだ。


 ひとまず、ゲンジやランにお前を目にかけるように言ってはおくが、忠告もすべきだと思ってな。くれぐれも気を付けろよ?」


「……はい」


 フィルヒナーのその忠告に、翔は力なく答えた。敵は外だけではなく中にもいる。今度の遠征は、本当に大変なものになりそうだ。


 するとその様子をフィルヒナーが見て、絶対零度の視線を向けて言った。


「元気が無いな?」


「はいっ!」


「よし。

 もう飯の時間だ。遠征前、力をつけていけ」


 フィルヒナーにそう励まされ、翔はその密会を終える。もう昼なのか、と時の経過の速さに驚いたが、その時腹の虫がぐうと鳴いたので疑うまでも無さそうだ。急いで昼飯を求め駆けて行く。


 フィルヒナーもその様子を見届けてから自らの部屋に帰り始めた。元いた部屋を、一瞥することなく。


 ──その部屋の物陰に一人、息を潜めて隠れているのに気付かず。





「いただきまーす!」


 翔は嬉々とした表情で食卓に付く。毎度ながら食事の時間は唯一の楽しみなのだ。少しくらいテンションを上げてもバチは当たらないだろう。


 基地の食事事情は意外ときちんとしていた。基地内で栽培している野菜でビタミンを補い、主要なタンパク質は遠征で狩った獣の肉や魚、炭水化物はイモ類が多いが、たまに米も出される。もちろん二十五年前に比べれば種類も少なく調理の質も低いのかもしれないが、それでも食の楽しみというのは大きかった。


「……あれ」


 しかしその日は何故か食指が動かなかった。身体をあまり動かしていないせいか、とも思ったが、それにしても変だと思った。すると後ろから元二隊長が声をかけてきた。


「遠征前で食欲ないかもしれないが、ちゃんと食っとけよ」


 その言葉でようやく気付いた。翔は怯えているのだと。またあの猛吹雪の世界に飛び込むことに。あの猛獣達に挑むことに。


「……おかしいな……」


 翔は元より一度死んだ身だ。『氷の女王』に立ち向かっていったあの時、フィルヒナー達が助けてくれなかったら確実に凍死をしていた。そうでなくてもあの猛吹雪の世界で生きるか死ぬかの生活をしていたのだ。今更死ぬことなんか怖くない、そんなふうに思っていたつもりなのに──


「……こわい」


 一度助かったことで、この基地での安全な生活に慣れたことで、再び危険に身を委ねるのが怖くなった、など笑えない。笑えない、が、生憎と翔はそんな意気地無しのようだ。


「大丈夫ですか?」


 ふと前方から声をかけられた。声の主は遠征隊の、どこかで顔を見たことのある青年であった。年は翔と同じくらいだろうか。いつも誠実そうに訓練をしていたのを見ていた。


まことと呼んでください、カケル様。お噂はかねがね」


「あ……いえ。よろしく……お願いします」


 その真の好青年っぷりに押されながらもなんとか返答をする。それにしても目の前の真は、翔と同い年ほどなのにこれほど堂々としているのだ。改めて死ぬのが恐ろしい、などと言っていた自分が情けなくなる。


 そんなことを思っていたから、その後の真の台詞は翔にとって意外なものであった。


「……怖いっすよね、遠征」


 その言葉が目の前の真の口から出たものだとはすぐには信じられなかった。


「外の世界には何がいるかは分かりませんし、猛吹雪で帰り道が分からなくなったら絶望的です。今回も、生きて帰ってこれるかな……」


「……真も、怖いのか?」


 翔はその言葉が信じられなかった。真はあれほど堂々としていたし、誠実に訓練に励んでいた。あの口ぶりだとこれが初めての遠征では無さそうだ。それなのに、怖い?


 すると真はきょとんとした顔をして答えた。


「……当然ですよ。死ぬのは怖いです。いつまで経っても」


 その言葉に翔はどこか救われた気がした。怖くて、いいのか。翔は死に、怯えてもいいのか。


 するとその会話を聞いて元二もこちらに加わってきた。


「ついでに言うならこんなオジサンもまだまだ怖いからな。いつになっても慣れねぇさ。死ぬのが怖くない、なんて、ただのバカの思考だろ」


 隊長である元二もそう言うのを聞いて、翔は安心を取り戻していた。死ぬのが怖い。思えばそれは、当たり前のことだった。翔は一体、何に悩んでいたのだろう。


「……ま、怖い気持ちも分からないでもないけどな。今副隊長やってるランも、初陣の時はめちゃんこビビっててなぁ……」


「ゲンさん!余計な事言わないでくっさい!」


 そう言って笑う元二に、ランバートが少し赤い顔をしてそう注意した。そしてふと、翔の視線が彼とぶつかる。


「……よう、ビビってるみたいじゃねぇかカケルくん。基地でおねんねしててもいいんだぜ?」


「その言葉そのまま返しますよ、『先輩』。それに、もう怖くなんかありません」


 翔は死ぬのは未だに怖い。それは何度もその境地を体験したであろう元二もそうなのだ。仕方が無いだろう。


 しかし、もう翔は怖くない。翔の気持ちに同意した真が、翔を励ました元二が、それらの『仲間』がいる。それらの頼もしさを、今更ながらに実感したのだ。


 ──そして最後に。引き下がれない理由が出来た。


「……ここでビビってたら『先輩』に笑われる」


 そのことが何よりも翔を奮い立たせたのは黙っておこう。


 そうして遠征前の日々も、それ以前のように翔は平常心で過ごすことが出来たのだった。





 数日後、翔は慣れないガスマスクを付け、冷気を通さない分厚いそのスキーウェアのようなものに身を通し、『外』に出る準備をしていた。


 マスクにこのウェアのせいで、視界良好なこの基地の中でも遠征隊のメンバーの見分けがつかなかった。辛うじてヒロ先輩は体型で推測できるが、それ以外の人は、ほぼ顔がマスクで隠れている状況で、識別するのは不可能に見て取れた。


 そしてしっかりと遠征隊はその対策をしているようだった。メンバーのウェアは皆色が違う。元二は黒、ランバートは赤、真は白といった感じだ。


 翔の色は青であった。隣でガスマスクを付けるのに四苦八苦しているフィーリニの色はピンクだ。翔が彼女にマスクを付けてあげると、彼女は翔にニッコリと笑った。その笑顔に少しどぎまぎとしたその時、元二から指示が入った。


「よし!

 皆準備はいいな。遠征を開始する!」


 その言葉と共に、基地の扉が開け放たれた。


 そうして翔の、長い長い、最初の遠征が始まったのだった。

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