第8話

8−1

 暁彦様が好き。俺、あの人のもんになるわ。


 そう決心してもうたところで、原則として、俺の性質は変わらへん。


 男食わな死ぬ。人間の精気を吸わへんかったら、死ぬ。それは永遠に変わらん原理や。


 暁彦様が、いくら俺を好いてくれてもな、毎日とは言わん、俺の必要とする時に、いつも来て、俺と仲良うしてくれへんのやったら、俺は死ぬ。


 ほんまに死ぬ。どんなに好きでも、腹は減る。


 何もしてへんて、半泣きで滝川さんにゲロったとおり、ほんまに俺は坊々と何もしてへん。秋津の坊は、俺を焦らすだけ焦らし、キスだけして帰っていった。


 キス。それは俺も大好きやけど、気持ちええだけで、食うたうちに入らん。


 俺的には、成果はゼロや。何もなし。


 当分はええわ。言うても飯、百三十五杯は食うたし、おっさんも一日二回食うた。それ足して、飯、百三十五杯と、十八杯。そういうことや。そんだけ食えば、しばらくは保つやろう。


 そやけど秋津の坊々は、次いつ来るやら、わからへん。いつとは言わんし、あいつはいつも突然来る。化けもんが化けて出るみたいに、急に来るんや。


 電話一本、よこさへん。手紙一通、書くわけでない。待ってて、ずっと、必ず行くから。近々やでおぼろって、可愛い顔して言うだけで、何月何日の何時にいきますとは言わん。


 それさえ分かればな。俺も、あと二日やったら耐えようかなとか、あと二週間は死ぬなとか、そういう計算ができるんや。いつかやと困る。


 滝川さんは、すぐ帰った。翌朝には。


 白川の家に残してあった何人かの部下と、ちょっと遅めの朝に、引き上げていった。


 俺はそれを、家の前で見送った。


 軍の黒塗りの車の窓あけて、珍しゅう滝川さんは俺に別れを告げた。しばしの別れや。まさかもう今生では二度と会わんとは、思うてもみいひんのやから。


「運転手、置いてくで。あの、田舎モンのほう」


 今、自分が乗ってる黒塗りのほうを運転してる奴やない。滝川さんはそう言いたかったんやろう。


 今、運転席に居るほうは、滝川さんが昔から使うてる、もっと鋭い目した奴や。俺もそいつと寝たことある。滝川さんに負けず劣らん鬼や。あっちのほうも凄い。犯りながら首絞めてくるんや。酷い奴しかいてへんのやわ。


「お前も、たまには気晴らしで、街でも行ってみたらええわ」


 滝川さんは助手席から俺を見て、まるで優しい旦那みたいに言うた。


「秋津の坊を誘うたれ。お前みたいな綺麗所を連れて街歩きしたら、楽しいやろ、きっと。小腹好いたら、あの運転手を食うてもええし、好きにせえ。死なんようにだけ、注意せなな。お前にはまだまだ、頼みたいこともあるんや」


 滝川さんは機嫌がようて、それも珍しゅう、にこにこして見えた。


 俺の小腹のことまで心配してくれはって、おおきに。


 何で俺があの田舎臭い餓鬼に、何遍も犯らせてやらなあかんのや。置いてくな、そんなもん。俺の好みの男やないわ。


 滝川さん、なんか誤解してたんやないやろか。


「しかし、お前がまさか、あの運転手を好きとはなあ。俺は全く気づかんかったわ。分からんことって、あるなあ。なあ?」


 運転席にいる男に、滝川さんは気さくに尋ね、そこから、そうですねという、白けた声が返った。


 みんな知っとるわ、そんな訳ないって。お前だけが、おかしいんやで、滝川さん。でもお前が怖あて、逆らわんのやんか。それかもう、諦めてんのや。こういう人やって。


「怜司、あの運転手と練習して、ケツだけで逝けるようになったら、電報打ってこい。ワレ目標ヲ達成セリ、てな。そしたら俺も味見に来るわ。昨夜ゆうべ見たところ、努力しだいやろうしな、精々気張れ」


 ものすご笑うて、ご機嫌やったわ。滝川さん。車内の皆も笑うてた。笑うしかあらへんわな。俺かて他人事やったら笑うわ。


 そやけど自分事やんか。俺が笑われてんのやで。もう、顔赤うなるんを堪えるだけで必死や。俺は車の横で腕組みして、さすがになんて言うか思いつかんで、うつむいて黙っていた。


 酷すぎひん、あんた。俺までおかしいなってくるわ。


「ほな出せ。舞鶴へ」


 窓を閉めながら、おっさんは指示した。軍港へ行くようやった。それか大陸にでも行くんか。何をしに行くんやろうなあ。俺は知らん。知らされてない。知らんほうがええことって、この世にはあるんやろうな。


 車は走り去った。その刹那せつな、滝川さんは俺を見た。じっと見て、何を考えてんのか、俺には結局、一個もわからへん人やったわ。


 ああ。疲れた。あのおっさんが帰ると、俺は毎度、ものすご疲れる。


 寝よ。とりあえず寝よ。目が醒めるまで。誰が来ても無視しよ。暁彦様以外。


 あいつ、いつ来るんかなあ、て、それを考えると、もう胸がドキドキした。


 昨日の今日やし、さすがに来いひんやろ。そんなすぐ来いひんわな。


 来てくれてもええけど、大学生や言うてたし、家には式がぎょうさんおるんやて。ほんで、別嬪の許嫁いいなずけのおつた姉ちゃんと、りんご飴のお登与。多いなあ……。どんだけおるねん。滝川さんの方がマシやった?


 いいや。そんなことない。俺の目に狂いはないはず。


 狂うてる? 狂うてるんかなあ……。


 なんでかクソばっか引いてまうんや。俺にはどうも、男を見る目がないんや。


 今にして思えば、なんで、あれとかあれとか、あいつとかを、俺は気づかんと殺ってもうたんやっていう、俺に甘いキスをする男がおった。そいつらの精気は甘うて、ものすご腹一杯になれた。それで、美味いなあって食うてたら、相手が死んでまうんやんか。


 お前が欲しいなら、どんだけでも吸うてくれ。血でも肉でも、なんでもくれてやる。それでお前が生きられるなら、俺は死んでもええんや、好きにしてって、そう言うてくれる奴が、いくらでもとは言わん。片手の指では足りひん、けど両手の指では余る。その程度おったわ。


 この、ええと、平安遷都から何年? 泣くよ794うぐいすやから、そこから1941年までやから、えっ、1147年間⁉︎


 何百年かちゃうわ、千年超えてるわ、俺の年。ええー、そうなん? 千年ひと昔やなあ。


 ええっと……えーとな、とにかく、その千年間で、両手の指に足らんぐらいやから、百から二百年に一人しか出現せえへんのやん。そういうレア物は。


 そやのに、俺、それを全部、殺っとるわ。


 俺が意識してへんかった奴まで入れたら、もっとかもしれへん。


 ほんで、滝川さんとか、暁彦様みたいなクソに惚れとる。


 データが示してる。俺には、男を選ぶスキルが、全然あらへんのやていうことを。


 もしかして。まさかやけど。あの運転手? あれが俺の運命の人? あいつと添うたら幸せになれるんか、俺は?


 いやいやいやいや、無い無い無い無い。違う。暁彦様やろ。どう考えてもそうやで。


 だって、坊々やしな。顔かて、ものすごええねんで? 男前やわ。優しいしな。キスも上手いし、それがえげつのう甘いんや。


 きっと、あっちの方も、ものすごう上手いに違いない。


 だって、俺を愛撫して誘うてた、あの手つき。あれは一般的な京大生の技術水準クオリティやない。当社調べで棒グラフが暁彦様一人だけ天井をぶち抜いてるのや。


 俺は京大生、何人も食うてるから知ってんのや。間違いはない。実際のデータに基づく話やで。ガセやないんや。


 そやから、暁彦様や。俺はそう思う。


 そう……思うのやけど。


 今夜は乾山けんざんの番やって。


 俺の番は、いつ?


 そない思うと、なんや自信がないわ。自分の結論に。


 俺は、滝川さんに言われて一晩、坊々の接待をしただけやったんやないか? 俺の意思やない。


 そない誤魔化して、逃げるんやったら、今やで。怜司。今が最後のチャンス。


 まだ俺は戻れる。滝川さんにかて、何も言うてへん。あんた嫌やし、捨てて暁彦様に行くわて、まだ言うてへんもん俺は。


 昨夜ゆうべのあの人は、優しかったやん。俺には許容範囲やった。あれでええねん。俺には充分やった。


 まるで出会うてすぐの頃のようやった。


 あの人が最初から鬼やったら、俺かて好きになんかならんわ。最初から骨折ってきてたら、そらあかんて。そこまでの幅広いキャパシティは俺にはない。


 最初は優しいとこもあったさかいに、騙されるんやんか。


 そう。最初は。誰かて優しいんや。


 とにかく、初めにお互い体を許すまでは、誰かて優しい。口説いてるうちはな。


 問題は、いっぺん寝た後やん。


 俺は暁彦様の、それを見てない。だって寝てへんのやもん。


 豹変するかもしれへんで?


 一発犯って、こいつはこういうもんか、なるほどなあて思って、募ってた欲の色眼鏡から解放されて、素のお互いを見たら、夢が醒めるかもしれへん。


 なんや、こいつは神やない。ごみっかすやわて、暁彦様も気付くんやない?


 そない思うと、夏やのに、ぞうっとした。


 寒い。さむ


 風呂に入りたい。温かい湯に浸かりたい。それで、大丈夫やって思いたい。できれば何か摘みたい。安らかに小腹が満ちて、俺は平気や、死んだりしんひんて思える何かを。


 人間の精気や。男喰いたい。


 ちょっと待てって。もう欲しいんか?


 おかしいやろ俺は。何杯食えば足りるん。


 今まで意識したことなかった。はっきり言うけど、俺は男娼やったわ。客が来て、お前はなんぼやて言えば、金とって寝る。そういうのが仕事やったんや。客は一日中来る。朝でも来る奴は来るんや。


 俺はほとんど眠らへんのやし、飯も食わへん。体力かて化けもん並みなんやしな。一日中でも客の相手ができるわ。


 そやから、自分がどうしたいかに関わらず、一日中、ひっきりなしに客と寝てたんや。嫌やった時もあるえ。そやけど、それが仕事やし、しょうがなかってん。


 そやから気づきようがなかったんかなあ。自分が恐ろしく貪欲やということに……。


 しょっちゅう犯ってな、身が保たんということに。


 そんなはずないねんけどなあ。


 滝川さんとデキてもうてからは、俺は客を引く稼業からは、抜けたはずやった。


 それでも男とは寝てたなあ。


 あいつはそうやという話は、そうそう消えんもんや。昔のよしみもあるし、一発犯らせろていう奴は来る。どこかから聞きつけて。


 それは渡りに船やったし、滝川さんも、あかんとは言わんかった。なんで俺にそれが必要か知っとったしな、それに滝川さんの予定は、ちゃんと連絡されてた。事前に。急に来るいうたかて、東京からやし、一日がかりや。


 向こうを発つ時、こっちに電話するか、電報でも打ってくれたら、俺も支度ができる。俺の一番大事な客である滝川さんに、誰も鉢合わせんで済むよう、調整するやん。


 白川を見下ろす月見台のさくに、赤い紐が結んである日は、俺は休業中やすみや。誰とも寝えへん。滝川さんとしか。そういうルールやった。皆それをわきまえてた。


 そらそうやわ。客は俺の恋人やない。適切な距離とルールがあるやろ。床屋が休みの日に押しかけていって、今すぐ髪切れていう客は、おらんやん。それと一緒でな、金払うて俺と寝ようって奴にも、ルールは守ってもらうわ。


 俺には臨時休業があるんや。それがルール。


 でも、秋津の坊々はルール無用や。いつ来るか分からんのやもん。いつ赤い紐結ぶの? そんな暇ない。


 ルールを無視する、あいつが悪いんや。俺のせいやない。


 月見台の紐を外しにいって、俺は夏の昼前の空を見上げた。もう、目がくらむような暑い日差しが射していた。


 クソ暑い。風呂入るにしても、ぬるめでええか。


 自分で支度しよかな。どうせ暇やし、って、風呂を炊くかまどのある裏庭に行ったら、そこにおった。


 運転手がやで。暁彦様やない。残念ながら。


 運転手君は、まきを割ってくれてた。それに火つけて湯を沸かす風呂やってん。昭和十六年やしな。今みたいに、スイッチひとつで湯が出てくる時代やないわ。


 風呂は贅沢やった。薪割りも大変やし、その分の金も労力もかかる。要するに俺は、ええご身分やったんや。滝川さんは、俺が風呂入りたい時にはいつでも入ってええように、そのための金も人も惜しみのう用意してた。


 別に自分でできるし。そない思うけど、旦那にも面子がある言うて。囲うた妾に楽をさせ、贅沢させるんは、旦那の甲斐性や。そやから、ええべべを着て、ええもん食うて、いつも美しゅうして、風呂なんか一日何遍でも入りたきゃ入れと、そういう事やった。


「あ、風呂ですか?」


 首にかけてた手拭いで、汗を拭い、薪割り運転手は俺の方に向き直った。昨日、座敷で滝川さんに酒器をぶん投げられてできた傷が、まだ額にあった。


 お前、すごい汗やな。倒れるで。熱中症で。でもこの時代にそういう発想はない。


 それに、すごいな、案外。ええ体やわ。あの座敷では、俺も朦朧もうろうとしてて、気付かへんかったけど、まあまあの出来やな。さすがは兵隊や。


 でも。なんやろう。お前のその、坊主頭の、田舎の三男か四男やし、一旗あげよう思って従軍しましたていう、キラキラ初々しい、牧歌的な顔。特に不細工でもないが、特に男前でもない。気のええのんが取り柄やでという、特徴のない顔。


 俺はお前のどこをどう高う買うたらええのや。


 こいつに抱かれて喘いだ自分が、今さら改めて正気やないなと思った。滝川さんが、さっぱり分からんというんも道理や。


 あんな男ぶりのええ偉い軍人の旦那にちょいちょい抱いてもろうても、いつも石みたいに無反応やった俺が、なんでこのしょうもない坊主頭の無階級の男になんか……。


 なんでやった?


 キスが。そう。キスがな、甘かったんやわ。


 口元に手を置いて、斜に見て来るしかめっ面の俺は、なんとはのう、汚らわしそうに、運転手を見ていたそうや。


 坊主くんは思うた。あれっ……俺、もしかして、汗臭い? それか何か嫌われるようなことしたか? って、ものすご戸惑う目で、運転手はドギマギしてた。


 それで思い出したよな。お前は俺に嫌われるようなことを、したな。座敷で強姦したやんか。


 俺、嫌やて言うた? 言うてへんか? でもあれ、無理矢理やったよな?


 こいつは常識ある善良な若者なんやし、それくらいの判断はできた。俺がお前に抱かれて嬉しそうやったか、どうか。なんぼ夢中でも、それくらいは分かってたよな。


 それで、坊主頭くんは急に、ごめんなさいと恥ずかしいの混ざり合った赤い顔をして、なた持ったまま、庭でうつむいていた。


「あのう……すいませんでした。昨日……」


 ごめんで済んだら警察いらへん。


 俺は黙っといた。


 ええよ、ええよ、全然かまわへん。けっこうかったえ。ありがとう。


 そんなん言うわけあらへんわ。俺はそこまで安うはない。むしろ高級なんえ。


 俺が当時、幾らやったと思う?


 まあ。そやな。こいつの給金、一月分くらいかな。もっとか?


 頑張れば手が届くけど、毎日は無理。そういう高級品やったよな、俺は。


 それをタダで食うたんやから、お前はツイてた。ええ上司に恵まれたよな。


「お前、なんて名前?」


 お高い顔で横目に見ながら、俺は運転手にいた。


篠田翔悟しのだしょうごであります」


 坊主頭は軍人らしく、かかとそろえ、背筋を伸ばして、俺の質問に答えた。

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