18.神輿の絵

ツェンリャの弾んだ声が聞こえた。その次に聞こえたのは、悲鳴だった。アスコラクは急いで現場に駆けつけた。家の中では家族が一塊になって怯え、父親らしき人物が包丁をツェンリャに向けている。アスコラクがこの状況を理解しようと辺りを巡らすと、水が入った桶が目に入った。そこに映っていたのはツェンリャではなく、大きな白蛇だった。


(旱魃の際に現れる蛇の化け物は鏡が苦手)


神輿の絵柄についての記憶がアスコラクの脳裏に浮かんだ。


「ツェンリャ、こっちを見るんだ」


アスコラクが水鏡を指示するのと、「やあっ!」と叫んで父親がツェンリャに切りつけられるのは同時だった。ツェンリャの皮膚は父が向けた刃を跳ね返し、泣きそうな声で「どうして?」と呟いて水鏡を見た。そこには、クワリの神輿に描かれた化け物が映っていた。ツェンリャは絶叫したかと思うと猛烈な勢いで浜の方へと引き返したツェンリャの足は蛇のままだ。上半身はかろうじて人間の面影をとどめているが、皮膚が鱗に覆われていた。海に戻ろうとするツェンリャをアスコラクが制すると、波打ち際でもみ合いとなった。腰まで浸かって、二人が動くたびに水面がばしゃばしゃと跳ねる。二人はおかげで頭から何から全てずぶ濡れになっていた。


「離してください、黒飛天様! 私は、いいえ、妾はもう家族のもとにも友人のもとにも寺院にもどこにも帰れません!」


良くしてくれたおじいさんの死体を放っておいて、そこから食べ物を盗んだ罪。友人の二人の死を悲しまずに、自分だけ良い思いをしていた罪。そして、御仏を裏切って主に憧れてしまった罪。数えだせば、数えきれないほどの罪をツェンリャは犯してきた。そして今、夫の理想に刃向おうとしている。何て自分は罪深い人間なのだろう。だから、これは罰なのだろうか。血も涙もない化け物。これが悪人の末路なのだろうか。


「悲しみに打ちひしがれたこんな状態で帰れば殺されるぞ!」


「構いません、いっそ、そうしてくれれば良いのです!」


ツェンリャは叫んだ。自分には価値がないどころか、化け物だ。ただ、今になってツェンリャは思い知る。自分は他人に愛されるだけのことをして来ただろうか。人々がクワリを愛するのは、クワリが信仰の対価として豊穣を約束する存在だからだ。では、ツェンリャは何を他人に与えて来ただろう。ツェンリャは常に受け身で、何も他人に与えなかったではないか。ツェンリャは自分が愛されるだけの対価を生産することを怠った。自己中心的な考えしか持たなかった。家族や友人を対価に差し出し、なおも自分で責任を持とうとしなかった。ツェンリャはその意味で、真に外民だった。何の義務も果たさなかったから、何の権利も持たなかった。与えられて当然のものなど、この世に一つもないのに、ツェンリャはそれを何の対価も、責任もなしに享受した。だから生きる権利も失った。これは天罰だ。


「俺の話を聞いてくれ。お前を助ける方法が一つだけある」


ツェンリャは訝しげに首を傾けた。


「お前を俺が殺すことだ」


正確には首を狩ることで現状を維持したまま俺の配下に置くことだ。俺の命令に応じて働く義務が生じるが、「帰る場所は存在する」。そしてそこではツェンリャを異形と見なすものはいない。皆がある意味異形だからだ。


「財宝は家に残してきたわ。今度は妾が夫との約束を守らねばなるまい」


「海に帰るつもりか?」


「はい」


「だがその約束はこちら側が不利になっている」


「それでも、一夜を共にした夫婦です。夫に殺されるならば本望です」


ツェンリャは海へと帰っていった。


「ツェンリャ」


ツェンリャの腰が海水に沈む頃、アスコラクはツェンリャを後ろから抱きしめた。


「長いことクワリをやってきて、自分の感情が分からないんだな」


「本望だったら、本望です!」


確かにツェンリャは自分の気持ちに疎い部分があった。クワリの輿を見てカーテンを強く握り締めたときの感情が「嫉妬」と呼ばれる感情だと気付いたのは、しばらく経ってからだった。


「じゃあ、なんで泣いてるんだ?」


ツェンリャは自分が泣いていることに今気付いた。『遅れている』の意味をツェンリャはようやく理解した。ツェンリャは感情やそれに伴う表情を取り戻すのが、他の抜け殻たちよりも大分遅かったのだ。


「うるさい!」


ツェンリャは顔を覆ったまま海面をみる。触った感触は肌なのに水鏡には下半身が大蛇だ。

ツェンリャはアスコラクから逃れ、一気に海の中に沈んだ。海中では人間の足よりも蛇の足の方が有利だ。二人の差はどんどん開いていく。


「ツェンリャ、早まるな!」

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