17.家族のもとへ

 ツェンリャの背筋を凍らせる恐ろしい声だった。海王の目が、今にもツェンリャを殺してしまいそうなほど殺気立ち、ツェンリャは声を出せずに頷くことしかできなかった。その声は大広間に轟いた雷に似た声だった。これが自分の夫のもう一つの姿なのだと再認識した。そして恐ろしくなった。しかし悲しまなかった。掟さえ違えなければ願いはかなうのだから。


「何でも持って行くがよい。明日にでも支度させよう。さあツェンリャ、驚かせてすまなかった。笑っておくれ。我はこの世界を悲しみのない幸福な世界としたいのだ」


襖に気泡が常に泡立ち、他の部屋や廊下からの視線を喘ぎっている。ツェンリャはそのまま海王と一夜を共にして名実共に海王の妻となった。

 翌日、陸上では手に入らない品々が約束どおりに用意された。貝に珊瑚、真珠に金、美しい反物の数々。


「こんなに、よろしいのですか?」


ツェンリャは海王に控えめがちにきいた。あまりの事に言葉のことを忘れていた。これに対して海王はゆっくりと頷いて微笑んだ。


「言ったであろう? 全て望みをかなえると。だからお主も約束をやぶるではないぞ」


「はい、このご恩は生涯忘れません」


品々を侍女姿のアスコラクが背負い、それに先行してツェンリャが水をかく。二人の周りを鈴蘭のような明かりを持った魚たちが泳いで先導役をかってでた。海中だというのに、全く息が苦しくない。それどころか、陸にいた時のように楽に呼吸ができる。会話までしっかり成り立つから不思議だ。


「思ったよりも快適に過ごせそうじゃの」


すっかり后の言葉遣いに慣れたツェンリャは下を振り返りながら言ったが、アスコラクの表情は晴れない。


「何でも、ということはこのままもう一度家族や友人と暮らしても構わないということであろう?」


アスコラクの表情を曇らせていたのは、まさにその要求をした場合のことだった。后が永遠に戻ってこない場合、別居状態が長く続く。そのまま別居して夫婦の意味がなくなってしまう。何故海王はそのような「結婚」という制度自体が危うくなることまで許すのだろうか。もし借りたら海王は妃が必ず自分のもとに帰って来るという自信があるのではないだろうか。魚の先導たちがいなくなる頃、ツェンリャとアスコラクは湊に出た。ツェンリャは海浜の上を駆け出した。間違いない。故郷に帰ってきたのだ。アスコラクは走り出したツェンリャの腕をつかんだ。


「何じゃ?」


「慎重にいった方が良い」


アスコラクは努めて冷静に言ったがツェンリャはその腕を振り切って走り出した。明け方の町は静かで、魚の市場を回り込んで貧民街に着く頃になってツェンリャは息を整えるために一度物陰に身を潜めた。全身が期待と興奮でどくんどくんとなっている。


(家族は泣いて喜ぶだろうか。私が財宝と共に帰ったことを)


そう考えながら黎明の魚市場を通り抜け、貧民街へと足を運んだ。貧民街はひどい悪臭を放ち、道も整備されていなかった。トタンの屋根が重なり合うようにして軒を連ね、規格外の魚が乾された棚には蛆がわいていた。

 ツェンリャはどれも同じに見える一軒の家に入っていった。


「母さん、父さん!」

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