15.約束の歌
ツェンリャはぎこちない「足取り」で静かな町へ繰り出した。しばらく歩くと、誰かが後ろからついてきた。町の中で争えば騒ぎになるかもしれない。ツェンリャは注意深く歩調を変えながら、町の外れに誘導した。
「お嬢さん」
足を止めたツェンリャに、男が声をかけてきた。予想以上に若い男だ。ツェンリャが振り向くと、男は鉈を振り落とした。しかし金属音のような音がして、男の鉈は弾き返された。ツェンリャは男が混乱している隙に、男の背後に回り込み、町への道をふさいだ。灰色の髪の男は片足を引きずり、片目が潰れ、体は痩せている。
「お前、人間か? しかも、ただの生きた人間? 何故、このようなことを」
「この町の奴等に復讐するんだ。全員、プラビェルと同じ苦しみを味合わせてやる。そうしなければ、こいつらは一生、プラビェルの苦しみを知らずに笑って暮らす。その生活が、彼女の犠牲の上に成り立ったものだということも知らずに!」
男は鉈を振り回すが、ツェンリャは難なくそれをかわすことが出来た。何故か男は疲弊していて動きが鈍い。その上この男は戦うこと、いや、喧嘩すらしたことがないのではないかというほど、動きに無駄があった。意外にこの男は本来、穏やかな性格だったのかもしれないと、ツェンリャは思った。
「プラビェルとは慕う女のことじゃな? こんなことを、その者が願ったのか?」
「違う! うるさい‼」
「辛そうじゃな……」
ツェンリャは眉をひそめた。ツェンリャは男の鉈をかわしながら、郊外へと誘導する。男はツェンリャを執拗に追った。しかし、一本のメタセコイヤの木が生える丘の上まで来て、男は足を止めた。何か大切な物がそこにあったかのように、男は茫洋とした表情で、丘に一本だけ生えた木を見つめていた。そしておもむろに、男は丘のてっぺんにある木の下まで登って来た。遠くから男の様子を伺っていたアスコラクは、男の殺気が消えた事に気付いた。男は茫然と木の幹を見つめて立ち尽くしていた。男は幹に手を添え、額を当てながら歌を口ずさんだ。今しかない、と考えたアスコラクはツェンリャに指示を出した。
「締め上げろ」
ツェンリャは木の枝を伝って尾を伸ばした。男は逃げようとしたが、木の幹ごと体を巻き付けられて、身動きが取れない。男は鉈で大蛇を切ろうとしたが、また金属音がして弾き返された。ツェンリャの体を覆う白い鱗は、龍の鱗と同じものだ。だから人が用いるような刃物では鱗に傷一つつけることはできない。
「妾の体はそんな物で切れんぞ」
男の頭上から、逆さ吊りのツェンリャが現れた。その瞳は本物の蛇のように光った。ツェンリャの宙吊りの上半身は、男を縛る蛇の下半身に繋がり、全身が白い鱗で覆われていた。顔も指先も、全てである。
「蛇の化け物?」
「ツェンリャじゃ。妾に無礼を行えるのは両主だけじゃ。覚えておけ」
「主?」
「今は俺だ」
アスコラクは大鎌を手にして男の前に立った。背中には漆黒の翼を背負っている。
「俺はアスコラク。名前は?」
「グネフ」
「グネフ、誰にこんなことをさせられた?」
「これは、俺の復讐だ」
「違う。わずかに他の人物の狂気を感じるし、心臓を捧げる様に仕向けられている。白い悪魔に何かされなかったか? ラサルという名前を知らないか?」
アスコラクはグネフを刺激しないように、冷静に言葉を発した。
「よく知っている。あいつのせいで、全部狂った。でもあいつが来る前からプラビェルは苦しんでいた。もし復讐が出来るなら、ラサルに従うことすらいとわない。文字通り、悪魔に魂を売った。だが、もう良い……」
グネフは木の枝を見上げ、溜め息をもらした。五年前、プラビェルと初めて出会った場所だ。二人の場所に帰ってきた。いろいろな事を話して、歌った。あの時、確かに幼い二人は幸せだった。幸せが続くと思った。
「お前を救う方法が一つだけある」
「救う?」
人を救える力があるのなら、プラビェルの方を救ってほしかったが、アスコラクの言う「救う」とは、そういう一般的な「救い」とは違っていたようだ。
「このまま死ねば、死んでからもラサルの使い魔にされる。しかし俺に首を狩られれば、俺の使い魔になる事が決まっている」
アスコラクは鎌の刃をグネフに見せた。
「お前は、一体?」
アスコラクが持つ大鎌はまるで、紫がかった翼と砂時計を持つ「時の翁」のようだ。しかし黒い翼は彼が悪魔であることを物語っている。まるで異種混合したかのような奇妙さがあった。アスコラクは言葉に詰まった。実はこの質問が一番苦手なのだ。
「俺は、そうだな。首狩り天使の代役とでも言っておこう」
「首狩り天使の代役? 悪魔のお前が?」
グネフは警戒感をあらわにした。
「まあ、俺に首を狩られれば分かるよ。ラサルにつきたければ構わない。ツェンリャに殺させる」
「最後まで、静かに過ごせないものだな。人殺しには当然か」
グネフの手から、鉈が滑り落ちた。今まで鉈を握っていた手で胸に手を当てて、グネフが歌ったのは讃美歌だった。主の為ではなく、プラビェルの為の讃美歌だ。
(貴方の歌は、私の道しるべになったのよ)
ここで、五年前の目が見えなかったプラビェルは言った。だからグネフはプラビェルのこれからを思って歌った。どうかプラビェルの進む道が明るい道でありますように、と。
「プラビェル、どうか幸せに」
ツェンリャのとぐろの中で、掠れた歌は朗々と響き、やがて途切れた。天空では星々が輝きを放っていた。
「今、楽にしてやる」
アスコラクは鎌を振るってグネフの首を切り落とした。どさりと音を立てて、グネフの首が雑草が覆う地面に落ちる。血はそれほどでなかった。
「ツェンリャ、ご苦労だった」
「何、簡単なことじゃ」
ツェンリャは、グネフの死体を悲しげな表情で見つめていたが、ふと顔を上げると少女のような笑顔でアスコラクに声をかけた。
「それよりこの衣は動きやすい。貰っても構わぬか?」
「好きにしろ」
ツェンリャは肌を人間のものに戻し、微笑んだ。
「御意」
ツェンリャはロングスカートのまま闇に溶けて消えた。
グネフの体はうつ伏せに倒れていた。アスコラクはグネフの体を幹にもたれるように座らせ、切断された首を体に乗せた。これで殺人鬼の死体が見つかり、イネイたちは日常生活に戻れるだろう。しかし、このグネフもまた、イネイたちと同じように悪魔に人生をねじ曲げられた一人だ。グネフはただの悪人として語り継がれるだろう。アスコラクは曇った顔で羽ばたいた。
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