4.夢告

 しかし、ある日を境に、プラビェルは一歩も外に出られなくなった。彼女の両親が外出を強く禁じたのだ。


「どうして?」


そうプラビェルがきくと、両親は神妙な面持ちで答える。目が見えないプラビェルは、両親の暗く沈んだ声からその表情を推測した。


「お前の目は見えすぎたからだ」


「見てはいけない物を見たからだ」


盲目のプラビェルとは矛盾する回答だった。だから、プラビェルは混乱し、泣いた。家の中は暗かった。プラビェルはもっと光を見たいと望んだ。家の中の冷たくよどんだ空気よりも、外の暖かく、風が吹き抜ける外の世界を好んでいた。だが、そんなプラビェルの願望とは反対の方向に事態は動く。


人々は道標も縄も取り払ってしまったのだ。これではプラビェルが外の道を正確に歩くことは困難だ。プラビェルは一歩も外に出て歩くことはできない。杖はあるが、それだけでは心もとなかった。何故かプラビェルを両親もナチャートの町の人々も、外に出さないようにして、家に閉じ込めておきたいようだった。プラビェルの家から交換や贈り物を受け取る人はいなくなり、門前払いが続いた。『交換は交換される物よりも、交換を行う主体同士の人間関係に重きが置かれる』ならば、交換の拒否は人間関係の拒否に違いなかった。あんなにも自分に暖かく接してくれた町にこうも冷たくされると、まるで親友を失ったかのような喪失感と絶望感がある。プラビェルの両親は、我が子の不幸を呪い、こんな枷を与えた主を恨んだ。しかしそれでも、プラビェルは外に出ることを切望した。光は七色に色を変え、風が匂いを運んだ。


土の匂いは湿度によって変わり、花々は芳しく、緑はさわやかにざわめく。虫が飛ぶ羽音に、鳥たちの囀り。光は温かく、風は人々を包み込むように穏やかだ。様々な家畜は鳴いて、生命独特の匂いを発する。


肌に触れるものや様々な音は、いつも新鮮だった。この世には、何一つ同じものはないと、実感させられる。

 

プラビェルは農作業に追われる両親の目を盗んで、杖を持って外に出た。杖を突きながら、必死に今まで歩いた道を思い出して歩いた。杖を貰った人がその杖を取り返しに来たため、今のプラビェルの杖は森で拾ってきた太めの木の枝だった。本当は家の中で歩けるように父が拾ってきてくれた物だったがプラビェルは外にもこの枝で、出かけた。


そんなプラビェルの姿を見つけたナチャートの人々は、いっせいに家の扉や窓を閉めて隠れた。農作業の途中で作業を投げ出すことは珍しかったが、プラビェルが来たとなると話は別だ。すぐに家の中に引っ込む。大人の真似をして「あの人」と指を指す子供がいれば、親が慄然とした表情でそれを注意して家の中に子供を避難させた。プラビェルはその気配に心を痛めながらも道に沿って歩いた。カーメニの他の街のように石畳で舗装された道ではないが、その分、土の起伏や草の状態を探れば歩きやすかった。


 ナチャートの端まで来た時、家畜の声とは反対の方から讃美歌が聞こえてきた。その歌声は高音に成る程、掠れていた。


「誰かしら?」


今までに聞いたことのない声に、プラビェルは興味を引かれた。村人の声ならば、聞き分けることができる。しかし、こんなに美しい少年の声は聞いたことがない。


(見学旅行者かしら? それともボルガチかしら? でも二つとも讃美歌なんか歌わないはず……)


プラビェルは声の方へ歩いていった。しかし、十字路に差し掛かり、途方にくれた。あまりに声の主に集中し過ぎた為に、来たことのない道に入ってしまったようだ。これでは右も左も分からない。杖をつき、手を伸ばしてなんとか周囲の状況を探ろうとするが、空振りするばかりだ。

そんな時、声が降ってきた。


「それは何の踊り?」


少し掠れた少年の声だ。歌声の主に違いなかった。


「違うのよ。私は目が見えないの。助けて」


プラビェルは泣きそうな声で手を伸ばした。誰も助けてくれないことは分かっていた。もう、ナチャートの人々は、自分の存在さえ認めてくれないのだと。しかし、この少年は意外な言葉を口にした。


「そうだったのか! 待ってて。今、そっちに行くから」


少年の足が雑草を踏みしめて近づいてくる。草同士が擦れる音と草からしみ出す緑の臭いと土の臭いが混ざり、プラビェルはその様子を知ることができた。そして少年は何の躊躇もなくナチャートの人特有の温かくてごつごつした手で、プラビェルの手を握った。


「ごめんね、気付けなくて。変なことを聞いて、怒ってない?」


プラビェルは首を横に激しく振った。プラビェルは今まで自分に差し出されてきた多くのナチャートの人々の手を思い出し、涙をこらえきれなくなった。


「ごめんね。ごめんね」


少年は自分がプラビェルを泣かせたと思って焦り、謝り続けた。プラビェルは首を再び振って洟をすすった。


「違うの。嬉しかったの。あなたの手が懐かしくて……」


プラビェルはなかなか泣き止むことができなかった。少年はそんなプラビェルの手をそっと引いた。プラビェルが一歩踏み出すと上り坂になっていて、危うく転びそうになった。少年はプラビェルの体を抱えるようにして小さい丘の上まで導いた。この時少年はプラビェルよりも一回り大きい体をしていることが分かった。幾分草の上を歩いたところで、少年はプラビェルの両手を掴んで持ち上げた。指先がごつごつとした固い物に触れる。それは太い幹だった。丘の上に一本だけ大きな木があったのだ。それはナチャートの外れにある、と昔両親が話してくれたメタセコイヤの木に違いなかった。


「僕はグネフ・ベーレ」


グネフは丘の上に一本だけ生えている木の陰にプラビェルを導き、座るように促した。町はずれの丘のてっぺんに立つと、風が意外に強かった。光は真っ白で強い。プラビェルでも眩しいと感じられるほどだ。しかし木陰では涼しく感じられた。丘の地面を覆う若葉がさらさらと音を立てる。


「ねえ、何が見えるの?」


プラビェルが見上げて言うと、少年は生き生きして答えた。


「町を一望できるよ。端の家なんか玩具みたいだ」


「へえ」とプラビェルは息を漏らした。 

地面には草が生い茂り、敷物のようになっていた。風が吹いて空に浮かぶ白い雲が船のように流れていた。プラビェルは光の強弱と風の流れによってそれらを想像し、心が軽くなるのを感じた。何よりもここは人間の悪意と恐怖によって澱んだナチャートの町の気配が感じられず、グネフと二人だけの世界にいるようだった。



「私はプラビェルよ。ありがとう、グネフ。貴方の歌を辿ってきたら、いつの間にか知らない道に出てしまったみたいなの」



プラビェルは名前だけを名乗った。この時グネフは弾かれるようにプラビェルの顔を見たが、プラビェルはそれに気が付かなかった。


「貴方の歌、とっても素敵ね。聖歌隊の人みたい。また歌ってくれない?」


グネフは歯を食い縛って答えない。グネフが爪先で土を掘り返す。その渇いた土の匂いがプラビェルの鼻をくすぐった。頭の上で枝がざわざわと葉を揺らしている。その揺らぎによって生み出される斑の影は、生き物のように揺らめく。


「何か、あったんでしょう? 歌うときに、嫌なことがあったから、貴方の歌はどこか寂しい」

土を掘り返す音が止んだ。


「私は、貴方の歌が好きよ。だって、貴方に導いてくれたもの。だからね、もしも貴方が何かの為に歌えなくなったなら、今度は私の為に歌って欲しいの」


グネフの口から嗚咽が漏れた。プラビェルはそれを黙って聞いた。


グネフが泣いている間、プラビェルは考えた。グネフはここで歌っている間、何か大切な物とお別れをしていたのかもしれないと。それでも目の前に現れて自分の歌に合わせて「踊る」女の子を気にかけ、丘を下って来てくれた。グネフは優しい少年だとプラビェルは思った。それと同時に、プラビェルは不安になった。グネフが自分のことを知ったら、町の人々と同じように手のひらを返したように冷たくなるのではないか、と。


ひとしきり泣いたグネフは、洟をすすった。


「俺は聖歌隊の候補生としてカーメニ大聖堂の寮にいたんだ。でも、十二を過ぎた頃から、声が出なくなって家に戻ったんだ。家には風邪をこじらせて死んだ両親が残した豚しかいない。毎日、うるさい豚の声を聞いていると、恐ろしくなる。同じ寮にいた奴等には、俺の声は豚の鳴き声のように醜く聞こえていただろう、って。それに、嫉妬もある。何で俺だけ、こんな惨めな思いを、って」


グネフは洟をすすりながら答えた。油断すると、カーメニ大聖堂での暮らしが走馬灯のように脳裏を駆け巡り、はらわたが煮えくり返り、黒い澱のようなものが心の奥底に沈むようだった。


「豚の声も可愛いわ」


プラビェルは一点を見つめながら言った。風が爽やかに吹いていく。近くにタンポポでも咲いているのだろうか。わずかに花の匂いが立ち上り、蜜蜂の羽音が聞こえた。


「君は目が見えないから、そんなことが言えるんだ」


グネフは少しむきになったような声を発した。プラビェルは大きく瞬きをする。


「あら、豚にも一匹ずつ違った声があるのよ」


「何をバカな」


そう吐き捨てたグネフの声に、プラビェルは真上を仰いだ。風がそよいで頭上の梢も地面の草も音をたてていた。それは雨の音に似ていた。両親が語ってくれたことを思い出す。森と川がつながっているという話だ。豊かな森に降った雨が地面に浸みこんで、豊かな川になるという話だった。そのことを思うと、雨の降る音と森のざわめきが似ていることが妙に腑に落ちる気がした。


「木々も、付けている葉の種類や量が違えば、違った音をたてる。だから迷ったと気付いて焦ったわ」


プラビェルはおっとりとした口調で言った。グネフは面食らったようにプラビェルを見つめていたが、やがて視線を落とした。


「今度はこっちが質問していい?」


「どうぞ」


「何故付き添いもなしに出歩くんだ? 君はなかなか子供に恵まれなかった両親が、ようやく授かった子供だろう?」


「あら、私はそんなに有名だったかしら? そういえば、貴方もこの町の出身だったわね」


「何があったんだ? 俺が村を出た時には、皆に祝福された赤ん坊だったのに」


「私も貴方も後五年で死ぬ、って言ったら怖いでしょう? 例えば、隣の旦那さんが明日死ぬとか、元気なおばさんが明後日死ぬとか言い出した子供がいて、それが本当になったら怖いでしょう? しかも死因まで言い当てたなら、もっと気味が悪い」




一拍おいて、「子どもが死んだら、なおのこと」とプラビェルは声を落とした。

プラビェルは両膝を抱え、身をぎゅっと縮め、視線を落とした。そうすると、プラビェルの視界はいつも真っ暗になる。

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