3.産声

ある日、ナチャートに、新しい命が誕生した。


この時ばかりは見学旅行者の是非だけでなく、大概のいざこざは棚上げになる。ナチャートをあげて祝福するべきことが訪れたからである。子供を授かった夫婦は、裕福ではないが、保守的なナチャートのお手本みたいな夫婦だった。即ち、日の出とともに畑を耕し、日の入りと共に農作業を終える、という生活を送っていた。カーメニにおいて、あまり主を重んじすぎないという点においても保守的だった。それはナチャートの人々が自らの手によって作物や家畜を育てているという一種の自尊心から来るものだった。だから、方角的にも正反対な主を重んじすぎるザハトとは一線を画している。


子供は女の子だった。この夫婦は長い間不妊症で悩んでいた。不妊治療に効くと知れば、それらを全て試し、ようやくできた子供だった。そのため、この夫婦の感動は一入だった。この子供は「プラビェル」と名付けられた。髪は穏やかに波打つ金色で、青い瞳をしていた。どちらかというと母親に似た美人だった。


近所中にこの誕生は知られることとなり、皆がお祝いに駆け付けた。


貧しい一家は、突然の嵐に見舞われたように次々と来客があり、騒がしくなった。一日中、宴会が開かれているような状態だ。プラビェルはそんな喧騒の中でもよく眠っていた。土地や家畜を財産として継承する家業を主とするナチャートでは、先祖代々の財産を相続する子どもがいないことはこれ以上ない不幸である。この考え方がナチャートの人々の間では財産と共に継承され、バターのように熟成されているようだった。気が早い客人は、早くお婿さんが決まればいいだとか、誰それがいいだとかを本気で酔っぱらいながら議論を始める始末だ。各自持ち寄った野菜の炒めものや焼いた肉の臭いが、さらに客人を呼び寄せた。母子ともに健康だが、母親は無理は出来ない。さぞかし父親は大変だろうと思うだろうが、ここはナチャートである。隣近所のおばさんたちが、いつの間にか自分の家の台所のようにその場を仕切って、増え続ける客人に対応していた。


「すみません」


プラビェルの父親が台所にいる一番年長の女性に頭を下げる。すると、その女性は大笑いした。それにつられて他の奥様方も笑い始める。ナチャートの女性たちは料理も豪快だが、笑い方も豪快だ。


「あんた、父親になったんだろ。もうちょっとどんと構えて、中央で座っていればいいんだよ。濁酒でも皆に振る舞ってさ。ほらほら、男が台所覗くのは、女の風呂覗くのと一緒だよ。さっさと宴会の席に戻んな」


「は、はい」


父親は気おされて赤面し、言われた通りに宴会の席に加わった。


「風呂、のぞかれちまったねえ」


「あら嫌だ」


「あんたじゃ男は喜ばないよ」


「そっちこそ」


台所からそんな会話が聞こえたかと思うと、再び笑い声がおこった。

この日を境に一家の扱いは急転した。毎日のように誰かが赤ん坊のプラビェルを見て笑い、母親を見舞った。どこの誰だか分からない人まで、何かしらを持ってきて、夫婦を祝ってくれた。


「あの、これ、昔使っていたんですけど、良かったら貰ってください」


ある女性が持ってきたのは、おしめに使うさらしだった。


「ありがとうございます。助かります」


「いえ、私も貰った物ですから……」


赤ん坊用や幼児用の玩具にしても服にしても、万事がこのやり取りの応酬だった。つまり、これまでプラビェルが何不自由なく暮らせているのは、回り回っていつか誰かが誰かに贈った物のおかげなのである。そして今後プラビェルの後に子供が産まれた家があれば、今プラビェルのもとに集まっている物全てを、今度はその子供に贈らなければならない。宴会もそうだ。今はプラビェルの番だが、今後誰かに子供が生まれれば、その子供が産まれた家に料理を持ち寄って、プラビェルの母親が宴会の準備をしなければならない。

 


『交換は交換される物よりも、交換を行う主体同士の人間関係に重きが置かれる』



 サセート出身の父親は、ふと、故郷の薬屋の言葉を思い出していた、確か、サセートにある薬屋からナチャートの話を聞いた時だったと思う。薬屋の様子が独特のものであったため、この言葉だけは妙に鮮烈に覚えていた。


「疲れた?」


母親が言った。机に突っ伏してぼうっとしていた父親が、ハッとして起き上がった。そこには少しふくよかになったプラビェルの母の姿があった。腕にはプラビェルを抱いている。


「いや、話には聞いていたがすごいな。ひっきりなしに来るから、面食らっちゃたよ」


『ナチャートの子供は、ナチャートのもの』という言葉を、呪文のように母親は唱えた。


「ナチャートに生まれた子供は、ナチャートの全員で育て、守っていくという教訓みたいなものかな。だから、この子は私達だけの子供じゃなく、皆のものなのよ。子供は全員町の宝なんだから」


ナチャート出身の母親が誇らしげに言った。


「君からその教訓をきいたときはよくある町是みたいなものかと思っていたけど、父親になった瞬間から、本当にこうやって町中の皆で育ててるって実感したよ」


「頑張ってね、お父さん」


「はい」


思わず夫婦の間で笑いがこぼれた瞬間、プラビェルが突然泣き出した。


「どうしたんだ?」


父親が思わず心配そうな声を出して駆け寄る。すると、便の臭いが鼻をついた。母親は苦笑していた。


「これは、早速おしめの出番だな」


父親はさらしを取りに奥の部屋に向かった。古いさらしから新しいさらしに取り換える。便がまんべんなく染みついたさらしを洗って青天の下に干すと、夫婦の間には自然と笑みがこぼれた。


 しかし、起るのは良い事ばかりではない。プラビェルの行動がおかしいことに気付いたのは母親だった。プラビェルは何をするにも手で探ってから行動をするのだ。そして何もない所で何回も転ぶ。まだ小さいから仕方ないのかもしれないが、回数が多い気がした。


もしかしたら、と、ナチャート唯一の病院まで出かけることにした。この町医者も聖堂から派遣されてカーメニの町には必ずいる聖堂の職員だ。カーメニという西の首都を管理する聖堂にとって、都民の生活の安全や健康を守るのは当然の役目と考えられ、無料で受診することが出来る。貧しいナチャートでは重宝されている。

 プラビェルは暗室に通された。黒い幕の中で、医師がランプの光をプラビェルの前で左右に動かした。プラビェルはその光を追って首を動かした。その光をつかもうと、「うー、うー」と声を発しながら手を伸ばす。今度は明るい部屋で医師はプラビェルの目をじっくりと観察した。そして、気難しそうな溜息を一つついた。


「娘さんの目は、光や闇を見ることはできます。しかし、それ以外に形や色の識別などは出来ません。おそらく、先天的なものです。治る見込みはないでしょう」


「何か、薬は? 方法は?」


母親は思わず身を乗り出していた。


「残念ながら、何もできることはありません。歩けるようになったら、補助棒を持つことをお勧めします。大丈夫ですよ。この町の子は皆から大事にされますからね」


母親は曖昧に返事をした。

その帰路、病院から帰る母親とプラビェルを見つけた人々が、我先にと母親につめ寄った。


「プラビェルちゃん、何かあったのかね?」


農作業の手を休めておじいさんがききに来る。母親は正直に言うべきか悩んだ。もしも、プラビェルの盲目が原因で、他の子供たちから差別されたら、と考えると気が引けた。しかし、いつまでも周囲の目を誤魔化してばかりはいられない。ここは皆が家族のように暮らすナチャートなのだ。他人に侵害されない私的生活など、あってないようなものだ。プラビェルの個性として知っていてもらった方が、今後の為になる。母親は決心した。


「プラビェルは、目が見えないんです。治る見込みもないって」


母親が沈んだ様子で言うと、おじいさんは目を丸くした。


「それは大変だ!」


まるで町の一大事と言わんばかりに、おばあさんを呼ぶ。その声に気付いた人々が集まりだし、プラビェルとその母親は、いつの間にか人ごみの中心にいた。


「どれくらい見えないんだ?」


興味本位ではなく、本当に心配してくれているのが嬉しかった。


「本当に治らないのか、大聖堂の病院に見てもらった方がいいよ」


「補助棒か。家には昔婆さんが使っていた杖があるはずだ」


男がそう言うと、周りの人がうなずいたり男の体を突いたり叩いたりして、杖を持ってくるように急かした。


「それはいい。貸してやんなよ」


「でもプラビェルちゃんが歩けるようになるのは、まだ先だろ?」


「子供の成長はあっと言いう間さ」


あちこちから声が上がり、男が杖を取りに家に戻った。しばらくして、木を削って造った杖が差し出される。だいぶ使い込んでいるらしく、握る場所は滑らかになり、手垢で黒ずんでいた。


「ありがとうございます」


母親がそう言って軽く会釈をすると、男は顔を赤くして「とんでもない」と手を振って「汚くてごめんよ」と何故か謝った。プラビェルはこの騒ぎの中でもすやすやと眠っている。母親は何故か、この中で眠るような子は大器だ。大丈夫だ、と確信した。


「そうだ。良いことを考えた。皆、耳貸せ」


人々はひそひそ話に興じた。それを聞いた人々は、何か悪戯を思いついたかのように無邪気で、明るい表情を浮かべた。そして、「気を付けて帰んなさい」と、ようやく母親を解放してくれた。母親は杖を持ち、プラビェルをおんぶしてようやく家に着いた。


「どうだった?」


仕事も手に付かないといった様子で、父親が出迎えた。母親はゆるゆると首を振った。


「嫌な予感、的中しちゃった」


「でも、それ以外になんともないんだろう?」


「うん、まあね」


「じゃあ、俺たちでプラビェルの目になろう。俺たちが見た物を全て伝えて、毎日語り明かすのもいいじゃないか」


「そうね。私達が落ち込んでても、仕方ないもんね」


母親は町の人の笑顔を思い出す。あの、悪戯小僧のような笑顔だ。町の人は、何かを企んでいる。まるで、子供に内緒でプレゼントを買ってきたような、そんな顔だった。

翌朝、町の人々からプラビェルへのプレゼントの正体を、夫婦は知ることとなる。


朝の早い時間に家の玄関を誰かが強く叩く音がした。朝と言ってもまだ薄暗く、ナチャートの人々がようやく起きて、畑仕事の準備をしている時間帯だった。


「はい。どちら様?」


何の警戒もせずに母が戸を開けると、そこには満面の笑みを浮かべた隣のお婆さんが立っていた。


「ちょっと出てみなさいな」


そう言われて玄関から夫婦が外に出てみると、町のいたるところにロープが張られていた。それは一見、無造作な迷路のように見えた。しかしよく見てみると、一軒一軒の周りをぐるりと囲っていることが分かる。ロープが土地の境界になっているのだ。そして道にも真っ直ぐな大きい道から小さい道までロープが張られていた。それはちょうど子供の腰の高さに均一に杭を打ったところに張られている。そしてさらに、所々に木の看板にロープが通され、「○○」という表札がぶら下がっていたり、「××へ」だったりと標識までぶら下がっている。そして標識の下には必ず木の丸太が用意され、座って休むことが出来るようになっている。


ナチャートでも文字を使える人は皆無に等しい。しかし自分の名前や最低限の簡単な土地の名前は知っている。人々はそのたどたどしく記憶を探りながら懸命に文字を掘ったのだ。


「これを、まさか一晩で?」


「すごいな」


夫婦は口を開けたまま、素直な感想を口にした。


「そうだろう? おかげで皆寝不足さ」


隣のおばさんが誇らしげに、そして相変わらず豪快に笑い、おおげさに欠伸をした。


「大変だったんだよ。あんた達に知られないように造るには」


「ええ、もう、何とお礼を言って良いか……」


母親は思わず涙ぐんで、声を詰まらせた。


「ありがとうございます。ありがとうございます」


夫婦は涙声になりながら、必死に頭を下げた。


「礼は病院近くの奴らに言ってくれ。奴らが発起人なんだから」


「はい。もちろん」


プラビェルの両親は、街中に自分たちの畑で取れたお礼の品と共に礼を言って回った。皆自分たちの「作品」に自画自賛だ。


「いやあ、森の木を二、三本切るのも大変だったが、後は皆で力を合わせれば楽なもんだったよ」

そう言ってある男性は、力こぶを見せてくれた。


「森の木を切ったですって? 大袈裟なことを言うんじゃないよ! 使ったのは薪として取っておいた木じゃないか!」


「ちぇっ。ばれたか」


男性は肩をすくめる。


「男なんて木を杭の形にしたらお構いなしさ。ロープを杭に打ち付けて張ったのは女の人たちなんだよ」


そう言ってある女性は旦那を睨んだ。そう言われた旦那は再び肩をすくめた。


「夜通しは疲れたけど、これでプラビェルちゃんが暮らしやすくなるなら安いもんさ」


皆が口をそろえてそう言ってくれた。両親は、感謝と感激の旨を伝え、一軒、一軒、頭を下げた。

 成長したプラビェルがつかまり立ちをするようになると、両親は早速プラビェルを外に出して遊ばせるようにした。この村中の人々の大きな愛情に、いち早く触れさせたいと思ったからだ。プラビェルはロープにつかまりながら数歩進んでは転び、尻餅をついた。そんな様子をナチャートの村人たちは、微笑ましく見守っていた。そしてプラビェルのもとには、鈴の入った手造りのぬいぐるみや、音の出る玩具が届けられるようになった。プラビェルのお気に入りは鈴の入った狸のぬいぐるみで、肌身離さず持っていた。しかも、森を背後に配するナチャートだけあって、本物の狸の毛皮で作られた贅沢なぬいぐるみだ。都市部ではめったにお目にかかれない。


 さらに成長したプラビェルは、自由に歩けるようになった。外に出れば、縄を伝って、どこへでも行けるようになっていた。プラビェルもまた、両親と同じようにナチャートの人々の愛情に触れ、毎日感謝の心を忘れずに暮らした。プラビェルの右手にはいつも病院帰りに母が貰って来た木製の杖があり、左手には縄が握られていた。プラビェルの外出時に、両親のいずれかが付き添うことも多かった。そんな時には必ず両親はプラビェルに何かを触らせてくれた。そのおかげでプラビェルは、動物の鼻の多くは湿っていることや、牛の角が硬いこと、花の形などを学ぶことができた。そして夜には親子三人で、それぞれがその日に見た物について語った。父はいつもプラビェルに言った。


「俺たちはお前の目になるんだ。だから、見たいものを遠慮なく言うんだぞ」


両親はプラビェルが将来、目が見えなくても困らないように、様々な物を教えようとしていたのである。だからプラビェルのために両親は、外にある様々な物を家に持ち込んできて、三人で毎晩遅くまでそれについて語った。

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