2.言葉

 早朝の放牧を終えた灰色の髪の少年が鞭を振るい、沢山の豚を追い立てながら歩いて行く。その青い瞳には覇気がなかった。ナチャートでは毎日、いつでも見られる光景だ。だが、仕事中に覇気がないということは危険なことだった。ナチャートの人々にとって動物はペットではない。管理すべき家畜である。牛や馬なら大怪我を招きかねない。豚は牛のような角を持っていないし、馬のような脚力もないが、突進してくれば痛い目に合う。少年は列から離れそうになった豚を木の棒で突き、群れの中に戻す。豚たちは女のようにおしゃべりで、いつもブウブウいって少年を不快にさせる。そして豚たちは女たちよりも声が汚く、少年を苛つかせる。


「こんにちは」


ナチャートには似つかわしくない綺麗な格好をした男女が、少年に声をかけてきた。ナチャートの人達がいつも汚らしい格好をしているわけではなかったが、仕事で泥が付くのは辺り前だったし、ほつれていても直す時間さえ惜しかった。片言のカーメニの言葉だ。最近富裕層の間で流行っているという、見学旅行者に違いなかった。何でも欲しいものはすぐに手に入る人々が、わざわざ何もないナチャートに来て何をするのかは、少年にとって疑問でしかない。何故か、見学旅行者は皆同じことを言った。


『ここではノスタルジーが感じられる』


『ここには、我々が豊かさの代わりに失った心の豊かさが感じられる』


一体何のことかは分からない。おそらくナチャートが石の都の中では珍しく見えるのだろう。それに、食肉として加工される前の動物にも興味を持っているようだ。「かわいい」と言って、女の方が豚に近寄る。いかにも家畜を殺して食べたことのない人間の言いそうな言葉だった。家畜とペットは違う。一頭一頭に情をかけていたら、生活していけないということを知らないのだろうか。

 彼らはナチャートの人々の多くはその偏見に不快な思いをしていることを知らない。少年もその内の一人だ。だから少年はその見学旅行者の男女を無視した。


「おい」


男の方が声を荒げる。女の方はヒステリックに何か叫んでいる。カーメニの言葉ではなかったため、何を言っているかは分からなかったが、おそらく不平不満だろう。少年が耐えかねて、後ろを振り返ろうとした。そのすんでの所で、鍬を持った老人に止められた。少年の肩に、土色の手形がつく。老人は少年に片眉をあげて見せた。いかにも恩着せがましいその仕草に、少年は辟易した。老人は愛想よく見学旅行者の話に合わせ、「接客」を始めた。


「何もない所ですが……」


と、何もないはずのナチャートの案内を始める。少年は冷めた目で、その様子を肩越しに見やったが、自分の仕事に専念し始めた。


 今、ナチャートは二つの意見で割れている。即ち、見学旅行者を排除するべきだという意見と、積極的にいれていこうという意見だ。前者はこれ以上見学旅行者が増えれば、村の秩序が乱れ、「接客」にも労働時間がとられると主張している。後者は、労働時間を減らしてでも見学旅行者が増えれば、外貨が稼げると主張する。両者は平行線を辿ったあげくに宙に浮いたままになっているが、あの老人は後者の方だったのだろう。一方少年は積極的な意見を持ち合わせていない。どちらかというと前者だというだけである。少年のナチャートに対する無関心さは、少年の生い立ちと自尊心に因るところが多い。「少年」と言っても、ナチャートでは十を過ぎればもう大人と見なされる。つまり、立派な労働力なのである。十五歳である少年は、ナチャートでは十分すぎるくらいに大人だった。少年はまだ子供であった頃、カーメニ大聖堂に連れて行かれた。歌うことが大好きだった少年は、大聖堂の聖歌隊の試験を受けて見事に合格した。そして少年は聖歌隊の練習生として大聖堂で働いていたのだ。掃除や洗濯、来客や礼拝者の案内などの下働きの間に、歌の練習をした。ところが、少年が十二歳になった頃、異変が起こった。突然、高い音が出なくなったのである。少年は大聖堂の敷地内にある寮で暮らしていたが、声が出なくなると徐々に肩身が狭くなってきた。少年は喉に良いというものを試せるだけ試したが、一向に声が出る気配がない。そんな少年に、同じ寮生や先輩、指導する「先生」と呼ばれる大人は冷たい態度をとるようになってきった。歌の練習に参加させてもらえなくなることもあった。少年は必死だったが、どうにもならなかった。そんな時、父が危篤となったという報せを受けた。少年は母を助けるために逃げるように大聖堂を去った。この時、少年の聖歌隊への夢は潰えたのである。しかし少年の中ではまだ、大聖堂で働いていた頃の気持ちがくすぶっていた。自分は大聖堂に選ばれた存在であるという思いだ。本来、自分の仕事はこんな豚たちを相手にすることではなく、歌うことなのだとまだ頭の隅では考えていた。

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