第47話 凍熾せよ、悲劇の果ては惨劇の始まり
天へと伸びる一本の鉄塔を太一は見上げていた。
天を崇めるために建てられた塔は、天より火を授かり、その火は各地に受け継がれる。
人々はこの火のお陰で闇夜を恐れず、凍夜に震えることなく暮らすことができた。
すべての火の始まりの元とされる、この国、火ノ元に伝わる神話であった。
「たどり、着いた……」
灯京タワー。
灯京都の観光名所でもあり復興のシンボルでもある塔。
ただの塔にしか見えないが、今の太一には違いが見えていた。
「歪んでいるわね」
魔女となった未那もまた灯京タワーの輪郭が蜃気楼のように歪んで見えている。
いや、太一が太極で見た時よりも歪みが大きくなっていた。
「これは、危ないかも……」
すでに異常は具現化している。
灯京タワーを二分するように右は小火が、左には凍結がちらついて見える。
陰と陽の境界が綻び、混ざり合って混沌が生まれつつある証拠だ。
このまま拡大すれば一〇年前以上の災厄が灯京を襲うはずだ。
「これで終わらせるんだ。終わったら未那!」
「な、なに!」
緊張に固まる未那と向き合った太一は言う。
「もう一回デートしよう!」
未来を見据えれば鬼は笑って転がり落ちる。
何ごとも前向きに未来志向で進めば必ずや今を生きる活力になる。
「う、うん、今度こそしっかりエスコートしてよね」
「もちろんだとも」
境界に生じた混沌を陰と陽に分ければ、魔女から未那は解放される確信が太一にはあった。
「バエルは混沌を手で触れて消していた。魔法が感情にて使用するのなら仕訳するように、絡まった糸を解く感覚で使えば大丈夫だと思うんだ」
「簡単に言ってくれるわね」
混沌を陰陽に分けるのは魔女たる未那なのだ。
渋面を作る心情は理解できる。
「可能な限り手伝うよ」
未那の手を優しく握る太一は柔和な笑みを浮かべる。
未知は人を恐怖へ陥れる源泉。
同時に可能性が秘めた源泉でもある。
側にいると誓った、支えると覚悟した。
後一歩、修復さえ終われば未那はただの女の子に戻るはずだ。
「いたぞ、魔女だ!」
混沌の発生源へと踏み出そうとした太一と未那を縫い止める怒声。
振り返れば乗用車やトレーラーが灯京タワーに突っ込んできた。
減速する気配は一切ない。
未那を抱きしめながら太一はアスファルトの上に転がり込む。
間一髪で接触を避けようと、直撃を受けた台車は木っ端微塵となった。
「魔女だ!」
「魔女だぞ!」
「間違いない、魔女だ!」
車から降りてきた大人たちは口々に同じ言葉を吐く。
アスファルトに倒れ伏す太一は未那を抱き抱えながら周囲が囲まれていると知る。
何より太一たちを取り囲むのは軍人ではない。
その大半は一般人だが、警察官が混じっている。
共通して血走った目と鉄パイプやスコップを手に持ち友好的ではない。
「な、なんなんだよ、あんたたちは!」
見るからに統制の欠けた集団だ。
訓練など無縁で誰かと握りあうべき手に、人を殺せる獲物を握る、といった絵に描いたような大人たちだ。
「お前こそなんだ、魔女と一緒にいるなど!」
大人の一人が叫んだ。
叫びは感染するように殺意を持って広がっていく。
「こいつ、さっき魔女を庇ったぞ!」
「そうか、この小僧、魔女の眷属だな!」
「魔女を生かすな! 殺せ!」
「眷属もだ! 生かしておけば別の魔女を呼ぶぞ!」
「殺せ!」「殺せ!」「殺せ!」「殺せ!」「殺せ!」「殺せ!」
「殺せ!」「殺せ!」「殺せ!」「殺せ!」「殺せ!」「殺せ!」
「殺せ!」「殺せ!」「殺せ!」「殺せ!」「殺せ!」「殺せ!」
「殺せ!」「殺せ!」「殺せ!」「殺せ!」「殺せ!」「殺せ!」
「殺せ!」「殺せ!」「殺せ!」「殺せ!」「殺せ!」「殺せ!」
殺意が渦となり太一と未那を取り巻いていく。
同じだと太一は直感した。
妹と弟を焼かれたからと未那を殺そうとした優衣と。
一〇年前、アイムといた男を殺した者たちと。
あの大人たちにあるのは善意を土台にした殺意。
何故、善意で人を殺せる。
何故、善意を免罪符に武器を握れる。
「もう止めろ!」
太一は吼える。
己の信念の限り力強く。
だが魂を込めようと、善意に塗れた殺意の渦は容赦なく飲み込んでいく。
大人たちにあるのは紛れもなく魔女を殺す一点のみ。
弱い人間だと太一は思った。
いや弱いからこそ善意を心の柱に極端な目標を持って行動を起こす。
起こさなければ恐怖に心が押し潰される。
生存の誘惑が善意を押し出させる。
誰もが怖いのだ。
失われること、奪われることが。
「た、太一……!」
声と身体を震えさせる未那を太一は力強く抱きしめる。
いや今の太一には抱きしめることしかできなかった。
善良なる市民は暴徒と化して魔女と魔女殺しを取り囲む。
「殺せ! 殺せ! 殺せ! 殺せ!」
誰もが目に恐怖と殺意を、その手には鉄パイプやスコップといった獲物を手に一様に叫ぶ。
彼の者たちのあるのは、ただみんなを守りたいという善意である。
失わせない。奪わせない。
目の前からみんなの命を消し去らせない。
弱き者を守るために集い、脅威に立ち向かうのはごく自然なこと。
ただし、みんなの中に、魔女は、敵と断定された者は含まれない。
魔女はみんなを虐殺する。
魔女さえいなければ誰もが平和に暮らしていける。
だからこそ、殺さねばならない。
「魔女を殺せ!」
市民の一人が手に持つスコップを御旗の錦のように掲げて叫ぶ。
殺意の根幹は潔癖なまでの善良な心。
善意であるため、止める理由もなく、止められる理由もない。
「くっ……」
太一は未那を抱き抱えながら歯噛みする。
彼女は誰一人傷つけてない。
誰一人殺めていない。
だが善意に塗れた者に説こうと話が通じることはない。
彼の者たちは善意という毒沼に浸かりきっているからだ。
「た、太、一……」
耳に馴染んだ心地よい未那の声音はか細く、柔らかな吐息は今や乱れに乱れている。
暖かな日差しの下にいようと身体を寒さで震えさせ、むき出しの腕には幾何学的な紋様が明滅を繰り返している。
「大丈夫、大丈夫だから!」
未那を力強く抱きしめた太一は上昇する心拍数の中で答える。
彼女はまだ諦めていない。
ならばこの状況で諦める理由にはならない。
「殺せ! 殺せ! 殺せ!」
善意なる殺意は段階的に増していく。
四方は囲まれ、逃げ場などない。
今、魔女を放り出せば魔女ではない太一は助かるだろう。
魔女に心を操られ、人質とされたかわいそうな子だと民衆は勝手に憐れむだろう。
残念にも少年は洗脳の類は一切受けていない。
誰に言われるまでもなく己の
何より少年に魔女を――幼馴染を見捨てる選択肢など端から持ち得ていない。
同時に逃げ道も、隠れる場所もない。
更に抵抗するだけの異能もない。
魔女を唯一殺せる男――魔女殺しであろうとも太一はただの人間であり、魔女もまた人間だ。
「殺せええええっ!」
誰もが一斉に凶器を手に殴りかかる。
太一は未那を守るように覆いかぶさった瞬間、青白い光が瞼の裏で瞬いた。
来るべき衝撃が身体に訪れることはなく、瞼を開いた時、取り囲んだ誰もが倒れ伏している。
「え、こ、これは、あの時の!」
優衣のOSGから攻撃を守った魔女の防壁だった。
防壁に弾かれた衝撃か、誰もが呻いている。
「い、今だ!」
未那を抱えて太一は走り出した。
「未那、魔法は使える?」
「さっきから威嚇程度って使おうとしてんだけど、出ないの!」
未那の表皮を走る紋様は、灯京タワーとの距離が縮まる度に明滅の激しさを増し、殻が剥がれていくように、少しずつ消えつつあった。
「壁が出るのは防衛本能か、けどなんで!」
推察はできた。
恐らく、境界の修復点だからこそ、魔女の源たる柱が修復の準備に入ったのだろう。
魔法は本来、人を不幸にするのではなく、混ざり合った混沌を解くことで人を幸せにする力。
後は混沌を陰陽に分けて災害を防ぐと、意識して魔法を使用すればいい。
当たっているとしても状況が悪すぎた。
「太一、どうするの!」
「逃げるに決まって――なっ!」
未那に答えた太一は車の陰から飛び出す人物の反応に遅れた。
いや、遅れたのは、飛び出してきた人物の顔に記憶が刺激されたからだ。
「あ、あんたは――がっ!」
「太一っ!」
フルスイングの金属バットが太一の左側頭部に直撃した。
防災ヘルメットをかぶっていようと直撃は意識を揺さぶり、足をもつれさせる。
未那を抱き抱えたまま、太一は倒れこんだ。
「ざまあみろが!」
金属バットを握る男は痛快に叫ぶ。
「あれ、お前……あの時のガキじゃないか」
倒れ伏した太一に今一度、金属バットを振り上げた男は、その顔を見るなり、動きを止めた。
「あ、あんた、あんたは!」
未那もまた記憶が強かに刺激され、肺腑が急激に膨れ上がる感覚に支配される。
顔はやつれていようと、その顔を忘れたことなどない。
ただ思い出さないように、前を向いてきた。
けれど、まさか、まさか、こんな場所で再会するとは思わなかった。
――みんなの夢を奪い、未那から足を奪った男!
「やっぱりか、ああ、やっぱり、魔女のせいか! 俺の人生無茶苦茶にしたのはお前か!」
男の声音には興奮と狂気が入り混じり、はっきりと怒りを顔に刻ませている。
「てめえだ! てめえがあの時、魔女を呼んだせいで、俺はな!」
金属バットを幾度となく振り下ろし太一を強打する。
口から放たれるのは罵詈雑言の恨み節。
自らの非はなく、魔女のせいにしている。
ぞわり、と未那の全身を憤激が電撃として貫いた
「今度は――太一を奪う気なの!」
未那の表皮に走る紋様が強く発光し、強かな衝撃波となって男を弾き飛ばす。
男は何が起こったのかすら理解できぬまま、自動車の側面に背を叩きつけられていた。
ドアは凹み、金属バットは手を離れてアスファルトの上に落ちる。
「太一、太一、しっかりして!」
「ぐっ……ゲホゲホッ!」
意識を飛ばしていた太一は未那の果敢な呼びかけで目を覚ます。
肺に空気を送り込まんと激しくせき込み、全身の痛みに苦悶していた。
「だ、大丈夫?」
「ぐっ、ん~な、なんと、か……」
全身は痛むも、防災ヘルメットや防災ベストのお陰で致命傷は避けられていた。
側頭部を殴られた影響で意識は重いが、動けないことはない。
「い、今のうちに、い、急ごう……こ、これ以上、増えると厄介だ」
暴動なのは火を見るよりも明らか。
それも、魔女を殺したくて殺したくて仕方のない連中による暴動だ。
「こんな時に<M.M.>が現われでもしたらますます収拾がつかなくなる。下手をしたら一〇年前の繰り返しだ」
今は前へ進み、混沌を陰陽分け境界を修復する。
<M.M.>が救援に現れるご都合主義など信用しない。
逆に、暴動で混乱している隙を突いた魔女討伐作戦を展開してくるはずだ。
「う、動ける、の?」
「ああ、未那を抱えて走れるほどにね」
男の強がりは女への見栄だ。
未那を抱き抱えんとした太一は、かちりなる不吉な音に、本能のまま身体を向けていた。
ぱんっ、と乾いた破裂音が虚空に響く。
火薬の臭いが風に乗って鼻にたどり着き、少年の左胸部が急激に熱を帯びる。
衝撃と痛みは不思議と感じなかった。
「た、太一……?」
すぐ近くにいたはずなのに幼馴染みの声が遠くから聞こえる。
あれ、おかしいぞ?
地に足をつけて立っていたはずだと自問する。
ビルが少年の目線と同じく垂直に立ち、幼馴染みが顔を真っ青にしてのぞき込んでいる。
ああ、倒れているのか、と間を置かずして状況を理解できた。
「あ、赤い、ぞ?」
左胸部に手を当てれば、ぬるっと粘性の液体がまとわりつく。
それは生命の証、それは循環の証明、誰もが同一の色を持つ液体――少年の血だった。
血は防災ベストの左胸部から溢れては染め上げ、アスファルトへと零れ落ちる。
「し、しっかりして、太一! 太一!」
未那が先よりも遠くから叫ぶ。
不思議だ。
顔はきれいなまつげが見えるほど近くにあるのに声は逆に遠くから聞こえてくる。
目が湿り、滴となって少年の頬を濡らす。
左胸部の出血を未那が両手で抑えようとしているも流れ出る生命は止まることはない。
それどころか抑えれば抑えるほどその手を血で濡らす。
「あ、あははは、クソめ、邪魔しやがって!」
罵倒する声の主は金属バットで太一を殴打した男だった。
手に握るのは警察官が使用するリボルバー拳銃。
倒れ伏す警察官から強奪し発砲した。
証拠として銃口の先より白煙が漂っている。
撃たれたとの認識が後からついてきた。
「魔女の味方なんてするからだ。ざまあみろ!」
「おい、その男を燃やせ! 魔女のことだ。生贄にしてなにやらかすか分からないぞ!」
起き上がった暴徒たちが次々に集まっている。
今度こそ、魔女を殺さんと太一と未那を取り囲む。
誰もが撃った男を糾弾することはない。
糾弾すべきは魔女であり、魔女に味方する男は魔女だ。
つまり人類の敵だ。敵だから殺せ。生贄に捧げられる前に殺せ。
取り囲む民衆は口々にそう唱える。
「に、にげ、ろ……あ、後少しで……」
太一は震える手で未那の手を掴む。
声が出ない。
伝えなければならない言葉が口より出ない。
踏み出してはダメだ。
越えてはダメだ。
きみは今まで誰かを守ろうとしても、誰かを傷つけようとはしなかった。
ここに来て負けてはダメだ。
繰り返したらダメなんだ。
だけどこの願いを届ける前に意識は降下するように白化した。
「あ、あ、ああああああああああああああ――――」
未那はただ絶望に染まる。
手に残る温かな血を握りしめ、天へと顔を上げてむせぶように泣き叫ぶ。
動かなくなった。
大切な幼馴染み。
いつだって側にいてくれた幼馴染みがただの骸となった。
もう名前を呼んでくれない。
母親と喧嘩しても仲裁に入ってくれない。
不満や愚痴を正面から聞いてくれない。
強ばった脚を揉んでくれない。
いつも世話を焼いていたけど、気づけば逆に世話を焼かれていた幼なじみはもう――いない。
「太一、太一、たいちいいいいいいいいい!」
未那は声を枯らして泣き狂う。
表皮を統べる紋様は輝きを一層増し、鎖を引きちぎるかのように消えていく。
ああ、ああ――
世界はどうしてそこまで残酷になれる――
世界中が敵に回ろうと太一は側に居てくれた。
先輩に殺されかけ、親友には拒絶された。
けれど魔女になろうと変わらず接してくれた。
太一が側にいるからこそ魔女なる力を抑え続けられた。
太一がいるからこそ、魔女の正体と理由が分かった。
太一がいるから、これからもどうにかなると可能性を抱けた。
結果は――このザマだ。
「ゆる、さないっ――っ!」
魔女は太一を殺した男を怒りと悲しみを織り交ぜて睨みつける。
この男は生かしておけない。許しておけない。
生かしておけば、自分のように夢を、足を奪われる犠牲者が生まれ続けるはずだ。
「ひっ!」
気圧された男が恐怖を引き金に発砲しようと、銃弾は未那に命中する直前、不可視の力で弾かれる。
銃弾は後方に立つ暴徒の左肩に命中する。
痛みに呻いているようだが、死んでいないのだ。
ピーピー喚くな耳障りだ。
「殺すに殺しても殺し足りない。殺すなんて生温い……」
太一のいない世界など消えてしまえ、滅んでしまえ。
魔女の怒りに引き寄せられた混沌が瞬く間に理性を塗り潰す。
「
魔女は喉の奥底から絞り出す。
その瞳は炎のように熾烈に狂いながらも、意識は氷のように硬く閉ざされている。
誰が、誰を殺さずに殺し尽くすのか、獲物を見誤ることはない。
魔女の身体より炎が噴出し、瞬時に凍てつけば氷柱となり砕け散る。
中より現れし未那は扇情的なドレスを身にまとっていた。
「第一三柱ベレト!」
煌々たる熱波は氷結の波となり、壮絶なる寒波は燃えさかる火炎の波となった。
この瞬間、ある者は凍てつきながら焼かれ、ある者は焼かれながら凍てつくという地獄に突き落とされる。
悲劇の果ては惨劇の始まりであった。
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