第30話 彼女の左胸にある印章

 家が一番落ち着く、と旅行から帰れば誰だってそう思う。

 現に商業施設から脱出に成功した太一は未那を抱き抱えたまま、実家である篝家に身を潜めていた。

 掃除は定期的に行い、ガス、水道、電気は止めているが鍵は持っている。

 両親不在故の我が家は身を落ち着けるには格好の隠れ家だった。

「ふう……」

 太一は防災リュックの中より取り出したミネラルウォーターで喉の渇きを癒す。

 そのまま未那に渡そうとするも、彼女は畳の上に座り込んだまま壁に背を預けては穏やかな寝息を立てている。

 既に日は落ちている。

 太一は身体を冷やさぬよう断熱シートをかけるのであった。

「自分の家なのに、なんか他人の家って感じがするな……」

 幼き頃はこの部屋で未那と遊び、悪戯をしては叱られたものだ。

 確か、この押し入れの壁は……――

 この状況で抱く感傷ではないと思考を切り替える。

「さてと……」

 情報を収集するため太一はスマートフォンを取り出した。

 電波状態及びバッテリーは良好であり、手始めにニュースサイトへアクセスする。

 状況は一時の安堵さえ与えはしないと思い知る。

「半径一〇キロメートルの封鎖、完了……?」

 太一はスマートフォンを手に渋面を作る。

 魔女を都内に封じ込めるために、反応が探知された地点を中心に半径一〇キロ四方の封鎖が完了した。

 記事には写真が添付され、ゲートを守るOSGの姿があった。

「籠の鳥……いや、この場合は牢獄、いや狩り場か……」

 包囲し、追い詰め、殲滅する。

 ローラーで虱を潰しのように包囲網を狭めながら対象を見つけ出す。

 戦争映画で定番のローラー作戦ではないか。

「なんで、未那、なんだよ……」

 太一は頭を抱え込み苦悩する。

 女の身で魔女史学を志したために魔女となったからか。

 そうであるなら魔女史学を学ぶ全ての女が魔女になっているはずだ。

 過去に魔女史学を学んだ夏杏は魔女ではない。

「つまりは……別の理由があるんだ」

 理由が見えない。

 原因が分からない。

 分からないことが太一に苛立ちを与え、思考に窄まりを与えてくる。

「落ち着け、落ち着くんだ」

 太一は頭を振るい己を落ち着かせる。


 この状況下、誰が一番不安であり恐怖しているのか――


 魔女を恐れ灯京から避難する都民ではない。


 理由も分からぬまま魔女となった未那ではないか――


「理由は分からないのは僕も同じなんだ」

 魔女の装いを触れて消すなど意味が分からない。

 篝太一は人間だ。

 涼木未那もまた人間だ。

 同じ人間が人間を殺そうとするなど不条理すぎた。

 加えて赤い衣服の少女の存在も気がかりだ。

「魔女一人に一つの災害って習ったけど、なら、あの赤いのはなんなんだ?」

 疑問は解答を与えるはずがない。

 未那に浮かんだ紋様はどこか不完全さがある。

 逆に似ていながら、完成された紋様を持つ赤い衣服の少女。

 最大の疑問は魔女ならば災害を起こすはずが、状況に石を投げ、変化を楽しんでいる。

 一言で魔女のようで魔女らしくないのだ。

 迷惑を起こすが災害は起こさない。

 いったいなんのために?

「ええい、今考えるべきは包囲網の脱出と未那の魔女化を如何に解くかだ!」

 太一は頭を振るい、赤い衣服の少女を思考の隅へと押しやった。

「覚悟はしたんだろう。篝太一」

 太一は己に強く問いかける。


 恐れるのも人間だ。


 迷うのも人間であり逃げることもまた。


 ただ自分という人間を裏切る人間になるな。


「そうだ――僕は僕のわがままを通すんだ」

 遠慮などするな。

 他人に遠慮すれば望むものは遠ざかり最悪失うことになる。

 学人の言葉を思い出せ。


 火は火消しが到着するまで何一つ燃やさず待ってくれるわけではない。


「状況は自分に都合の良い時間と場所を選んでくれない」

 今なら学人の言葉の意味が理解できる。

 太一が行うべきことはどんな方法であろうと未那を魔女の力から解放すること。

 そのためには隣人友人どころか世界を敵に回すことになる。

 重荷を背負うことになる。

 今一度、太一の中で内なる声が強く問いかける。


 背負うものは重い。


 この世全てを敵に回してまで、先の見えぬ世界を闊歩できる覚悟はあるか。


 己の心が折れずとも彼女の心を折らぬよう支えることができるのか。


「覚悟とか自信とか今はどうでもいい。僕は未那を救いたい」

 それはたった一つの願望。

 下手をすればOSGが太一に銃口を向けるであろう。

 生身の太一に勝てる術などない。

 篝太一はアルバイトに励むごく普通の高校生なのだ。

 マンガやライトノベルの主人公のように超人的な力を持ってはいない。

 今は逃げろ。

 逃げ続けろ。

 生きるためにひたすら逃げろ。

 生きてさえいれば希望は繋げられる。

 当面の問題は封鎖された地区からいかにして脱出するかであった。

「ぐ、ぐうううううっ!」

 断熱シートに包まれた未那が唐突にうめき声を上げる。

 全身に魔女の紋様が現れ、激しい明滅を繰り返す。

「み、未那!」

 太一は未那を抱きしめ、魔女の紋様を消さんとする。

 その両腕で抱きしめるなり、ひときわ大きな鼓動が未那の心の臓から放たれた。

「うわっ!」

 鼓動は不可視の波動となり抱きしめる太一の腕を跳ね上げた。

「な、なん、だ、これ!」

 波動は太一の腕に伝播し視界が明滅する。

 白、黒、白、黒と交互に激しく明滅し、意識が揺らぐ。

 倒れるわけにはいかぬと意識を強く踏み留まらせた時、太一は未那の左胸部からひときわ強い鼓動を目撃した。

「き、消えた……」

 太一が持ち直したのと未那の身体から魔女の紋様が消えたのは同時だった。

「あ、あれ、私……?」

 身体を震えさせながら未那は目を覚ました。

(確かめて、みるか)

 抱き枕にされた夜のことを太一は思い出す。

 あの時も左胸が赤く光るのを垣間見た。

 関係あるか、否か、確かめる方法は一つだ。


「未那、悪いんだけど、服を全部脱いで裸になって」


 臆面もなく言った太一に未那は寝起きの顔を瞬く間に赤面させては絶句する。

「はああぁっ!」


「あんた、この状況で、よくもまあ抜け抜けと……」

 隠れ潜む状況で女に対して服を脱げなど非常識だろう。

 太一とて自覚している。

 だがどうしても確かめねばならぬことがあった。

「未那に抱き枕にされた夜、左胸に妙な光を見たんだ。その光を確かめさせて欲しい」

 あの時は未那がブラジャーを外す追撃に出たことで光の正体を確かめるのを忘れてしまった。

「本当の、本当よね? いきなり押し倒したりしないわよね?」

「僕は未那に嘘はつかないしこの状況でそんなことする根性はない」

 太一は断言する。

 自分に嘘はつきたくない。

 未那を裏切る行為はしたくない。

 対する未那は警戒半分困惑半分の目を向けていたが、覚悟したように服を脱ぎだした。

 今は砂一粒であろうと情報が欲しい。

 魔女化した理由を見つけたい。

 当然のこと未那の表情は羞恥に染まり、感情と行動が相反していることを現している。

 下着姿となった未那はブラジャーのホックを外せば、形の良い胸が外気と男の視線に晒されたことに目線逸らす。

「こ、これぐらいで、いいでしょう」

 羞恥に身体を震えさせる未那は堪えながら最後の砦であるショーツ一枚の姿で胸元を両腕で覆い隠していた。

「ごめん、未那」

 偽善だと太一は自覚する。

 未那の裸を何度も目撃したとはいえ羞恥に染まる姿は少年の知らぬ少女の一面を知ることになり、男を立ち上がらせるほど高揚させる。

 だが男であろうと獣ではない。

 理性を保ちながら太一は未那の腕を手にとり乳房を曝け出した。

「た、太一!」

 悶死しそうな声と表情が未那から飛ぶ。

 でかくもなく、それでいて小さくもない太一好みの乳房が目の前にある。

 頂に咲く桃色は健康的で生まれる子に良い乳を与えそうだ。

「こいつは……」

 太一は未那の左乳房下に異常を発見する。

 見間違えではなかった。

 拳サイズの円が未那の左乳房下で淡く発光している。

 間近で確認しようと顔を近づける太一だが、吐息が未那のきめ細かな肌に触れたのか「あん」との色っぽい声が頭上から聞こえてきた。

 太一は意識を力強く集中させた。

「なんだ、このマーク?」

 円の中に筆記体で書き記したような線と波線が集ったマーク。

 マークには何かしらの意味があるが、確かなのは外周部に文字列があることだ。

「よ、読めん……」

 モザイクが入ったかのように文字をはっきりと読み取ることができない。

 むしろ理解できないからこそ、情報ではなく意匠の印象を強く与えてくる。

 太一はおもむろに指を伸ばしては、マークに触れてみれば魔女の装い同様、光となって霧散した。

 当然のこときめ細かな肌を触れる感触だけが残されていた。

「未那、もういいよ」

 太一が言うなり未那は背を向け、服を着込んでいく。

 布ずれの音が静寂を闊歩する中、太一は内でたぎる男を抑えていれば未那が聞いてきた。

「どうだった?」

 位置的に未那は乳房が邪魔をして見ることができなかったようだ。

「円形のマークがあった」

「それってもしかして印章シジルじゃないの?」

 シジルとはラテン語で印章を意味する言葉だと未那は言う。

 中世、近世において善である天使、悪である悪魔を表す象徴であり簡素な記号から複雑な図像まで様々な種類を持ち、特に後者の図像をシジルと呼ばれていた。

「うん、一つ一つに意味があって、特に悪魔の印章は悪魔の真の名に相当するの」

「なら未那を魔女にしたのは悪魔なのか?」

 非現実だ、と口が裂けても言わなかった。

 魔女とは悪魔と契約した者のことだ。

 魔女が実在しているからこそ、悪魔の存在もあり得ることだ。

 魔女災害の元凶は悪魔なのか――なる仮説を組み上げるには要素が足りなさ過ぎた。

「わからないわよ。悪魔なんて会ったこともなければ見たこともないんだし」

 誰だってそうだ。

 悪魔など宗教上、人々が生み出した負の概念。

 神や天使と対をなす邪悪な存在だ。

「ただ一概に悪魔とかいうけど元は天使だったけど神に反逆して悪魔になったとか伝えられているわ」

 悪さをすれば評価や社会的地位が下がるように、天使だろうと悪さをすれば悪魔となる。

 そういえば、と太一は祖父母から悪さをすれば鬼に食べられるぞと幼き頃、戒められたのを思い出す。

 悪さをするな、善行を重ねよ、は時代が異なろうと人に根付いた善性だろう。

 ただ一定の人々を悪と定めて生き絶えるまで叩き続けるのは人に根付いた悪性だろう。

 人は善性と悪性、二の性を内に秘めているのだと改めて知る。

「まるで太極だな」

 相反する陰と陽で隔てられた概念と似通っている。

 昔の人々は自然界だけでなく人の内側にも陰陽があると捉えていたのだろう。

 善がなければ悪はなく、その逆も然り。

「太極って太極図のあれ?」

 太一と異なり未那は知識として知っていたようだ。

「うん、バイト先でその手のアンティークを見てね」

「ふ~ん」

 一瞬だけ、あの赤い衣服の少女が悪魔ではないかとの考えが太一の中で過る。

 不可解な現象を目の前で何度も起こしているからこそ疑うのは当然だが、災害ではなく厄介事を起こしている。

 新たな事実を知ろうと、求める真実には一向にたどり着けない。

「堂々巡りだな」

 状況を打開できぬ現状は思考に停滞を与えてくる。

「と、とりあえず今は休もう」

 緊張の連続で心身ともに疲弊している。

 消耗した状態が思考に停滞を与えているのならば、身を休めれば妙案の一つぐらい思いつくだろう。

「んっ!」

 未那は断熱シートを広げれば隣に入るよう促してきた。

 視線を逸らしながらも開いている左手で畳みを叩いて催促する姿に太一は微笑ましさと愛しさを感じていた。


 疲労により警戒が緩んでいた。

 故に篝太一と涼木未那は気づけなかった。

 何者かが篝家に侵入し、音を立てることなく鞘よりナイフを引き抜いたことを。

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