エピローグ




 スマホを握る手に力が入る相手へ電話をかける。

 明確な意志と覚悟を決めて。

 私は迷わないのだと、言い聞かせて。


「もしもし。すみれ?」

「遅くにごめんね、お母さん」


 特別苛立っている声ではなく安心した。


「おばあちゃんに聞いたわよ。タチの悪いインフルエンザに罹ったんですって?」

「うん。なかなか熱が引かなくて、連絡が遅くなっちゃった」

「もう大丈夫なの?」

「うん。元気になったよ」

「気をつけなさいよ。予防接種しないと重症化するんだから。どうせしてなかったんでしょ」

「えへへ、ばれた?」


 お母さんは呆れたように「もう」とわずかに笑った。


「……あのね、お母さん」

「なに」


 一呼吸おいて、私は本題を切り出す。


「私、まだおばあちゃんのところにいたい」

「ふぅん。限界集落が随分お気に召したのねぇ」


 声音に明らかな変化があった。

 悪い方向に。


「前よりお給料は少ないかもしれない。昇進もないし、名声だって得られないかもしれない。お母さんの目には地味で汚くてろくでもない仕事に見えると思う。でも、私はここで、ウィルオウィスプで働きたい」

「地味で汚くてろくでもない仕事をさせるために、あなたを育てたつもりはないわ。どうして自分の人生を棒に振るような選択をするの」

「ミズゴケを力いっぱい絞るの、ふかふかで気持ちいいんだよ。植物ごとに用土の内容を調節してあげるのも、砂場遊びみたいで面白いの」

「そんな子供でもできるようなこと、私なら間違っても仕事だなんて胸を張れないわ。何のスキルも発揮できないじゃない」


 お母さんはあの日の私と同じだ。

 植物なんて水と光さえあれば勝手に育つと考えている。


「子供にもこなせる作業を大人がやるから面白いんだよ。水はけを考えて用土の配合を変えたり、線虫に根をやられないために薬剤を混ぜたり。ライトの光量や照射時間も調子を見つつ変えていくの。徒長したら大変だから。全部、私は立派な仕事だと思う。おままごととは必要な知識量も経験も桁違いだもん」

「だからって――」


 どんなに反対されようが、もう揺るがない。


「私、やりたいことが見つかったの。内申を気にして通う習い事でもない。社会に順応するための右へ倣えの趣味じゃない。もっともっと深くまで知りたい、極めたい、先の景色を眺めてみたいって心から思えることを」


 無意識にそしるような口調で喋ったためだろうか。

 お母さんは急に黙り込んでしまう。


「だからまだ鬼住村とはさよならしない。自分なりに道を切り拓いて、進んでいく。途中でつまずいてこけても絶対に立ち上がってみせるよ。だって」


 大きく大きく深呼吸して、私は最後の言葉を吐き出した。


「笹森すみれはお母さんの娘だから」


 反論を待たず、通話を切った。


「あーあ、やっちゃった」


 怖いなぁ。

 怖すぎる。

 絶対怒りの電話がくるに決まっている。


「こうなったら当たって砕けろだ。やるしかない、頑張れすみれー! やればできるこ! 突き進め!」

「ぬか漬け娘! やかましいぞ!」


 階段下からあけび様の怒声が響いた。


「すみませーん、黙ります!」


 叫び返すと、どうしてか笑いが込み上げてきた。

 また怒鳴られそうなくらい大笑いして、涙すら滲んでくる。

 悲しみではなく、清々しさの溢れる涙が。



 *****



 今日もべっぴんさんだねぇ、みんな。

 なんてにやつきながら植物たちに霧吹きをする。

 天狗様の治める山々はまだ頂を白く染めているものの、村周辺はわずかに残雪を残すのみ。

 村の至る所からフキノトウや山菜の芽が萌え出し、木々の蕾はほころびていく。

 庭先の桜も、昨朝ようやく薄桃色の清楚な花びらを開いてくれた。


「もうすぐ咲きそうだね、ウスネオイデス」

「やっとですよー。この時をどれほど待ち侘びたか!」


 隣で、千秋さんがふんわりと微笑む。

 相変わらずゴールデンレトリバーな笑顔は健在だ。


「どんな香りがするか、しっかり嗅いで確かめなきゃ」


 すでに三角巾は取れ、腕も自由に動くようになった。

 やつれた表情もなく、いつも通りの笑顔も戻った。

 雪深いころの沈み切った雰囲気もまったく感じられない。

 こんなに嬉しいことなんて、そうないだろう。



 冬の間の数か月。

 長いような短いような、かけがえのない日々を噛みしめる。

 文字通り私は千秋さんの手となり働いた。

 ポット苗の移動から、植え替え、水槽の掃除、ほかにもまだまだたくさん。

 意外に片手では行えない仕事は多い。

 力仕事はもちろん、繊細な手作業もちょっとしたメンテナンスも。

 それまで千秋さんが主体だった植物のお世話を一通り私がこなした。

 お蔭で、冬の間にかなりスキルアップしたと自負している。

 ほんの少しなら緑の手に近づいたのでないだろうか。

 しかし、驕ることなかれ。

 上には上がいると肝に銘じ、本日も笹森すみれは仕事に勤しんでいるのである。


「わふん」

「虎鉄も楽しみだよねぇ」


 足元の虎鉄を撫でると「ふんっ」と鼻を鳴らして賛同してくれた。

 ぶんぶんしなる尻尾が脚に当たって痛いけれど赦してあげる。

 なんせご機嫌わんこは可愛いの塊だから。


「よし、終了」

「じゃ、鎖にかけておくね」


 霧吹きを終えたじゃもじゃことウスネオイデスには、萌葱色の小さな小さな蕾がいくつも顔をのぞかせていた。

 ウスネオイデスだけじゃない。

 他の多肉植物たちも、身の丈よりも長い花茎をまっすぐ伸ばして蕾を膨らませている。

 首を垂れるいくつもの蕾はそれぞれ色や形が異なり見ていて飽きない。

 リトープスも脱皮が始まり、中心の割れ目から新たな姿を現わそうと奮闘していた。

 しかし彼らは稀に脱皮不全を起こしてしまう。

 だから状態が悪くなる前に、消毒したカッターナイフで古い皮を裂く必要があるのだ。

 まさかこんなところで外科手術を行うとは思ってもみなかった。

 リトープスに関してなら、私は天才外科医かもしれない。


「次は……通販の子を梱包して、外のポット苗も手入れしないと」


 日々知識と経験は増えていく。

 ゆっくりゆっくり、緑の手が待つ頂へと歩みを進めている。

 進めば進むほど、数多の脇道の存在と、頂上までの果てしなさを突き付けられる。

 先人たちは幾度もの寄り道で理解を深め、経験を積み、玄人となったのだ。

 莫大な時間を要する寄り道は決して無駄にはならない。

 それらはすべて蓄積され専門知識に昇華されていく。

 私はまだまだ一合目付近をうろついているに過ぎない。

 それなのにこんなにも情報量が濃くて愉快なのは何故だろう。

 もっと登っていったら、どんな景色がみえるのだろう。


「春は華やかでいいよねぇ。店の周りに植えたチューリップも咲いたしさ」

「うちの花壇も満開ですよ。チューリップって春の花の代表格だし、蕾が卵みたいで可愛いですよね」

「そう言ってもらえると植えた甲斐があったよ」


 冬の間は気づかなかった球根の存在。

 雪解け後、急に地面からポコポコ芽吹くものだから驚いた。

 小さな芽はすくすく育ち、現在色とりどりの花を咲かせている。

 我が家の花壇も同様だ。

 どちらも学校の花壇を飾る赤やピンクの一般種ではない。

 花弁がフリルのように縮れていたり、八重になっていたり、マーブル色だったり。

 見たこともない品種ばかりが春風に揺れている。

 個性的な花々は見ていて飽きないし、何より美しい。


「どこかの短パン小学生に踏まれないか心配ですけどね」

「あー、拓斗今浮かれてるからなぁ。やりかねない」

「え? 春だからですか」


 どこからどう見てもピアニストの卵には見えない我が先輩は、突然店にやって来ては虎鉄と共に飛び出していく。


「いやいや。小学生のピアノコンクールで優勝したんだって。今朝電話で自慢されたんだよ。午前五時過ぎに」

「あはは……」


 二人して苦笑する。

 元気そうで安心した。

 元気過ぎて心配するくらいに。


「でもロホホラの世話はしっかりしてるみたいだよ。ちょっと緑の肌が見えてきたって、はしゃいでたし」

「よかった。元気なんですね、あの子」


 暖かくなればロホホラの成長も活発になる。

 よもぎのお饅頭は今年一年でどれくらい回復するのか。

 私も楽しみだ。


「純さんからも夜に電話があってね。お花見の予定を立てたってご機嫌だったよ」

「お花見かぁ……」


 私も通話ソフト経由で毎週のように純さんとおしゃべりしている。

 好みの植物店を見つけたとか、美味しいパンケーキの店に行ったとか、順調にお腹の赤ちゃんが育っているとか。そんなお話を。


「千秋さん、私たちもお花見行きましょうよ! 私行きたいです!」


 お客さんのいない二人だけの店内でちょっと声が大きくなる。

 この辺りの桜の名所は知らないけれど、春はお花見と決まっているのだ。

 行きたくないわけがない。

 千秋さんとなら尚更、心が弾む。


「行く? 僕いいところ知ってるよ」

「行きます! 連れていってください」

「よーし、じゃあ……今度の定休日に。ちょうど見ごろだろうから」

「やったー! 私、お弁当作りますね」

「わぁ、本格的」


 千秋さんはふにゃりと目を細めた。

 それまでにウスネオイデスの花も咲いてくれるだろうか。

 ああ、きっと咲いてくれる。

 こんなにも生命力にあふれた蕾を膨らませているのだから咲かないはずがない。


「虎鉄も一緒に行こうねー」

「うわん!」


 元気いっぱいの返事と連動して尻尾の動きが一層強くなる。

 鞭で打たれているかのような勢いに、たまらず「痛い痛い」と虎鉄から離れると千秋さんが声を出して笑った。



 なんてうららかな春の日だろうか。

 なんて愛おしい芽吹きの季節だろうか。



 道なんて、踏み外していなかった。

 来年も再来年もその先も、私は鬼住村で、大切な人のそばで、春を迎えるのだ。



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ボタニカルショップ ウィルオウィスプ 景崎 周 @0obkbko0

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